こちらは京都 金戒光明寺のアフロ大仏様。 まだ少年だった平敦盛を討って、のちに出家した熊谷直実もここに眠っています。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

6月に京都に移り住んだ次男さんが、先日写真を送ってくれました。
「ここに、見学に行ってきた」とのことです。
写真を見て、驚きました。いったいどうしたのだろう・・・この御髪。この仏様は「アフロ大仏」という愛称で呼ばれているとのこと。
アフロ大仏の髪は長い修行の結果
なんでも「気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされ」その結果、髪が伸びすぎて螺型に積み重なって盛り上がり、こういう髪になられたとのこと。
このお姿で、京都にある浄土宗のお寺、金戒光明寺の石段前に静かに佇んでいらっしゃいます。かすかに微笑んでいるお顔がやさしい。
アフロ大仏様、正式のお名前は、五劫(ごこう)思惟(しゆい)阿弥陀仏とおっしゃいますす。
法然の開いた金戒光明寺
アフロ大仏のいらっしゃる金戒光明寺には、鎌倉の御家人熊谷直実の墓があります。
熊谷直実は、1184年(寿永3年)の源平合戦一ノ谷の戦いでは義経について戦いました。。鵯越(ひよどりごえ)の逆落としが有名ですね。これが勝敗を決めたとか・・・。
ところで大河ドラマを見ていたら、この合戦の前にとんでもないシーンが出てきました。

後白河法皇(西田敏行さん)が手紙を書いて平家の陣に届けようと言い出します。「和平を進めよう、だからしばらくの間、戦はしないように」と、そういった内容の手紙です。平家をだましたわけです。
その時の後白河法皇の、いたずらをするようなお顔が忘れられません。
手紙を見た平家側では、それならしばらく戦はないな、と考えました。ところがこれはまったくの嘘。
後白河法皇にも、源氏方にもそんな気持ちはさらさらなかったのです。源氏を欺き油断させるための手紙でした。源氏側では合戦が始まるなんて思いもよらなかったでしょう。
ふいをつかれた源氏はたちまち敗退し、われ先にと船で逃げようとしました。
1人の平家の武将が騎馬で船に逃げのびようとしていた時、後ろから熊谷直実が追いかけてきて、「敵に背中を見せるとは卑怯なり」と叫びました。平家の武将は浜に引き返し戦いますが、たちまち熊谷直実に組み伏せられてしまいました。この武将が平敦盛です。
敦盛は若干17歳の少年
直実が兜を取ると、なんとそれは自分の息子のような少年でした。直実はためらい逃がそうとしますが、少年武者は早く討てと命じ、直実は涙ながらに首を取ったといいます。
直実はその後、罪の意識や人生の無常を感じ1193年(建久4年)、法然に弟子入りして出家したとのこと。
そのお寺が金戒光明寺です。直実はもう戦はしないと誓って鎧を池の水で洗い、境内の松に掛けました。その松は「熊谷直実鎧掛けの松」といわれ、その3代目の松が現存するとのこと。

金戒光明寺に行く機会があったらぜひ、修行に励まれたアフロ大仏様のお姿とともに、この松も一目見てみたいと思います。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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