玉木屋の女房 1~10
1
「なんだか、最近物騒だから気をつけたほうがいいよ。女二人の家はそうでなくても目をつけられてるはずだからね」
春のはじめの八ツ時、外はまだ明るいものの、開き始めた桜もあわてて蕾を閉じるような冷たい風が吹いている。少し早めに店を閉めようか。そう思いながら店の外に出たゆらは、店の前でお静とばっちり鉢合わせした。
「このところ、所払いになっていた権太が戻ってきて、 うろうろしているのを見たって人がいるんだよ。あんたのところにも知らせようと思ってね」
南本所小泉町にある木版師のこの店では、夕方過ぎに通いの職人の作治がいなくなるとぐっと寂しくなる。母親と娘二人の生活というのは、近所の人々も知っていて、何くれとなく気を付けてくれる。
お静は通りのはす向かいで、十年もそばの店を出している。凝り性で、味がいいので客が途切れない。
「これ、さっき店の余りなんだけど、今晩のおかずの足しにして」
「おばさん、ありがとう。いつもすみません」
甘辛く煮たアブラゲが小鉢の中に入っている。
寂しい暮らしなのはもちろん、版木づくりの仕事もほとんど職人の作治にやってもらうばかりで、それを見越して一昔前と比べると仕事もぐっと減った。せいぜい 蔦谷の旦那さんに急ぎの仕事を回してもらうくらいで、一度小さくなった商いを元に戻すというのは、なかなか難しかった。
お静の声を聞きつけて、女親のゆらが奧から顔を出した。
「あら、お静さんだったのね」
暮れかけてくると、もう寂しい、といって、三年前に亡くなった、夫の清吉の位牌のある仏壇の前に座って半時もそのまま動かないことがある。
お静が来たのは、アブラゲだけのためではない。どこか上気したような顔であがりかまちに上がり、框に座り込んでため息をひとつついた。
「入ってお茶でものみなさいよ」
「いやだわ、お構いしないで」
とは言いながら「じゃあ、ちょっとだけね」もう履き物をぬいで上がりかけている。
三和土に下駄をそろえて脱ぐと、腰をかがめ、のれんをくぐって家の中に入ってきた。座り込むとお静は、横にあった団扇を手に取りパタパタと顔をあおいだ。結った髷のすそからこぼれた後れ毛が、風につられてゆらゆら揺れる。
「この家は、特別なにおいがするねえ」
ふと、あたりを見回しながら言う。
向かいに座ったゆらがちょっと眉をひそめてきいた。
「イヤなのじゃないの。墨と、それと練った顔料の匂い、ちょっと変わった感じの匂い」
お静は鼻をふくらますようにして息を吸う。
ひょっとして青の絵具、「ベロ藍」の匂いだろうか。北斎の海の色空の色だ。いっとき、刷りも手がけていたときに、夫の清吉も気に入って、なんとかきれいなベロ藍を出したいと工夫していたものだ。
「そうなの」
ゆらはしばらく、もの思いにふけっていた。そんなゆらの顔をのぞきこむようにしてお静が言った。
2
「実はねえ」
両手で茶碗を囲むようにして茶をすすると、お静は笑って言った。
「ゆらちゃんに、ちょうどぴったりのお相手が見つかったのよ。川向こうで小間物商いをしてる家の次男坊なんだけど、こちらの話をしたら乗り気になってね。ほら、あちらは家を継ぐ心配もないし。こちらでも、養子に来てくれたら心強いってもんだろう」
「まあ、本人がどう思うかですね」
「そんなこと言ってたら、いつになるかわかりゃしないよ。店がなくなるのを待ってるようなもんじゃないか。こんないい話はないよ」
どうせろくな男ではないだろう、ゆらは思う。この前なんて、自分とこの、そば屋の下働きをめあわせようとしたのだから、油断も隙もあったもんじゃない。
夫の清吉が生きていたら、怒って怒鳴りつけたかもしれないが、継母と娘の寂しい二人暮らし。どうしたって押しが弱くなんでも、はいはいと聞いておくにこしたことはない。
清吉は、芯は気難しく頑固な男だったが、客あしらいがうまく、ひとの気を逸らさないところがあった。そんなことで、細々ながらなんとかやってこれたのだ。
彫り師の作治だって、清吉が十二のときからていねいに育てて一人前にし、その恩を感じて今では正木屋を支えてくれている。
そのとき、店の奥から近づいてくる足音がして、暖簾の向こうに作治の顔が覗いた。
「おかみさん」
「どうしたんだい」
ゆらが顔を向ける。作治はお静の方へ、ちらっと視線を走らせたあと、ゆらに向かって言った。
「版木がそろそろなくなりそうなんで、どっかから手に入りませんかね。蔦屋さんから、急ぎの仕事がくるよ、ってさっき使いの者が」
「おや、そうかい、そりゃあ、ありがたいねえ。蔦重が忙しいってことは、そのおこぼれでこっちまで仕事が回ってくるってことだから」
「へえ、確かに」
「明日、版木の方も、手に入るか蔦屋さんに聞いてみておくれ」
「おかみさん、勘弁してくだせえ。明日は、急ぎのがひとつ入っていて、手が放せねえんで」
「そうかい、わかった。あたしには、歩いていくのは無理だから、多江に行ってもらおうかね。あの娘は、蔦谷さんに気に入られてるから」
清吉は器量よしの娘が自慢で、幼い頃から、どこにでも連れ歩いたのだ。それで商売仲間のみんなに可愛がられ、物怖じしない娘になった。
「へえ、わかりました。そうしてもらえると有りがてえ」
律儀に頭を下げると、またお静のほうにイヤそうな一瞥をくれて出て行った。
作治には、お静がくるたび、嬉しそうに顔をほころばすゆらが不思議でならない。
「なんだっておかみさんは、あんな女を気軽に家にあげるんだ」
作治の顔にはそう書いてある。作業場に戻っていく彼の後ろ姿もどこか不機嫌に見える。背中の右側は、筋肉が盛り上がって瘤のようになっている。いつもかがみこんで板の機嫌を見ながら彫っているからだ。それはある意味、彫師の執念がそこに固まっているようだ、とゆらには思える。
3
ゆらは、十二年前に、ひかされて木版元の玉木屋の女房になった。その当時、結構知られた話で、なんでもその一件で若旦那は身上をつぶすほどの大金を使ったという。それにより玉木屋の版元としての力が弱まり、今ではすごい羽振りとなっている蔦重――蔦谷重三郎に差をつけられたのだという。
家が傾いたのはそれだけが理由ではない。ゆらは知っている。あの人の仕事のへの熱が冷めたのだ。以前、吉原の店に来ていたころの清吉は、いつも元気があって生き生きしていた。「仕事が、おもしろくて仕方ない」と目を輝かせながら話していたのだ。
遊女、染田游の横にどさりと座り込むと「今度、出す黄表紙は、ちょっとや、ちょっとのおもしろさじゃないんだ。ゾクッと身震いするくらいの趣向があって、最後に必ず、ああ、おもしろかった、生きてて良かった、といってもらえるような本を出したいんだ」
たしかに滑稽本、黄表紙などの版元としては、その話のおもしろさで、玉木屋の右に出る者はいない。
けれど黄表紙の類より、もっと、商売になるのは役者絵や美人画だ。これなら男にも女にも、大奥のお女中からいい歳をしたご隠居にも人気がある。蔦屋が羽振りがいいのは喜多川歌麿などの人気の絵師を見いだし次々と斬新な趣向の絵を描かせていることだ。
清吉には、そちらの運がなかったのだ。清吉自身がもともと絵師で、何人かの絵師の元で働いていたが、その世界にはよい絵師が何人もいて、早くから自分の才能に見切りをつけてしまった。
そして、見よう見まねで彫りのまねごとをしているうちに、もともと器用な男だったので、あちこちの工房で便利に使われるようになり、腕を磨いた。そして自分の工房をもつようになり、絵師、刷り師をかかえて版元としても活躍するようになった。
仕事はいくらでもあった。羽振りの良い町人達は、旨い酒を求めるように、黄表紙などで手軽に得られる楽しみを求めていたからだ。
4
「必ず江戸中の人間があっと驚いて夢中になって買い求めるようなのを出してやる」
「そうかい」
「おまえにもいずれ、必ず贅沢をさせてやるからな」
「うれしいねえ」
けれどその頃、すでに江戸中の版元の中で、日本橋に店を構える蔦屋重三郎にかなう版元はなく、抱えの絵師にもそちらに逃げられるなどして、だんだん商売は先細りになっていった。
やがて清吉は、脚気で寝込むようになり、所帯を持って三回目の正月が来る前に、一人娘の多江を残して亡くなってしまったのだ。
「女の盛りに、清吉さんを亡くし、忘れ形見の多江さんを、どんな気持で育ててきたの。あんた、ほんとに偉いわねえ」
お静の声で、ゆらは我に返った。
「ただ夢中だったのよ。あの人の忘れ形見を無事に育て上げなくちゃってね」
「自分の血をわけた子だって、こうはいかないよ。たいへんな入れ込みようだったじゃないの」
「まあ、そうかしらねえ。あの子を育てることで、あのひとを亡くした悲しみを忘れようとしていたのかも」
「ゆらちゃん、あんた、貞女の見本だわ」
「ふふ」
ゆらは頬を赤らめた。自分の気持ちを説明してもわかってもらえないだろう。店の羽振りの良いときにひかされて、あっという間に、おちぶれてしまったように見えるゆらを近くの者たちが噂しているのは知っている。
けれど、そんなのはどうでもいいのだ。
6
蔦屋から急ぎの仕事が入ったのはその数日後のことだった。ゆらが店の横にある工房に行くと、作治がいつものように背中を丸めて熱心に彫っている。しばらくそれを眺めていて、ふと、手を休めたとき、ゆらはその背中に話しかけた。
「忙しいところすまないねえ」
作治が汗をかいて赤くなった顔を上げる。
「おかみさん、どうしなすった」
「実は、さっき、蔦谷さんが、新しい役者絵の彫りを何枚か頼みにきたのさ。でも、今他の仕事もあって、あんたに頼みにくくて」
「いや、結構なこ とじゃねえですか。ちょうど弟子代りに小僧を頼もうと思ってたところです。でも、ちょっとやそっとで役に立つようにはなりませんが、いずれ店を大きくしたときのために」
「そんなことを考えてくれてるんだねえ」
ゆらは、有り難かった。玉木屋がいまも続いているのは作治のおかげだ。
「ところでねえ、おかみさん」
「なんだい」
「この前も話したけど、良い版木がねえんですよ。残ってるのはちっともダメで、思ったような線が出ねえんですよ」
「困ったねえ」
前から使っていた版木屋は、こちらが女の工房だと思って甘く見てるのかどうか、このところ、いくら言っても納品しようとしない。きっと、大きな版元関係のほうに先に回してるのだろう。作治が地道でまじめ過ぎうるくらい丁寧な仕事をしていて、注文が増えるかと思うと、ほかの版木屋や版元から何かと妨害が入るのだ。
「あたしは、このとおり脚が悪いから、探し回るのも難しそうだ」
「すみません。あっしが、不甲斐ないばっかりに」
「作治さん、違うよ」
ゆらは、パンと手をたたいた。
「そうだ。じゃあ、蔦屋の旦那にお願いしてみよう。何、多江に行かせればいいさ。蔦谷さんも、頼まれてる仕事を早く納めてほしいようだったから、嫌とはいうまい。それに、あの娘は小さいころから蔦屋さんに可愛がられてた。家の人がよく日本橋通油町にある耕書堂まで連れていくと、蔦屋の旦那さんが、駄賃だよ、といって必ずお菓子をくれたものだった。そうだね、そうしよう」
パンと手を打つと、奥の座敷の方に急ぎ足でいった。その足音が不思議なほど聞えない。それが花街で踊りをやっていた名残なのだろうかと作治は思うが、無論損なことはひと言だっていったことはない。
亡くなった清吉が言っていたのだ。
「あいつは足音を立てない女なんだよ」
「へえ」と言ったきり作治は黙った。主の言葉が女房を自慢してるのか、ただ一つの不満なのかは今もってわからない。
7
蔦重さんのところはうちと違って活気がある。
久しぶりに、耕書堂の店の前に立って多江は思った。次々と人が入っては、黄表紙などの本をかかえて出てくる。
暖簾を見上げていると、番頭さんらしき男がじろじろと多江を見ている。困ったな、そう思っていると、奥から主の蔦屋重三郎が顔をのぞかせた。
「おや、多江ちゃんじゃないか」
「あ、こんにちは。ご無沙汰してます」
多江はぺこりと頭を下げた。
「ずいぶん久しぶりだねえ。それにしても、よい娘さんになったものよ」
「そんなことないです」
多江は顔を赤らめた。
「まあ、とにかく中に入りなさいよ。なにか用があってきたんだろう」
「はい」
言われるまま中に入る。店先から奥まで、黄表紙や青本がズラリと並んでいる。そして、奥からは丁稚らしい男の子が何冊もの本を両手に抱えて持ってきては、丁寧に店先に並べていく。
その時店のたたきの辺りで灰色の塊のようなものが動くと思うと布きれの間から多江は伽あっとぬうっと男の顔が現われた。多江はキャと叫び声をあげた。
振り向くと蔦重が笑った。
店に入ってきても、上がり框のところに座ったきりで、口一つ開でもない。怒ったような顔でむっつり座ってるだけなのだ。
その横を素足で通るが板の上はひんやりとしている。こんなところに、なぜなんと気も座っていられるのだろう。
多江はちらりとその男の顔を見た。目がどこか一点を見つめていた。それは暗い情熱に引きずり込まれた目立った。そして、寂しがり屋で、暗い情念の中に何かを誘い込もうとしている目だった。
「そんな男のことなんて、どうでも良いから早くお上がり」
蔦重は素っ気なく言った。
「構わないでほっといてあげるのが、あの男には一番なのさ。そのためにここに来てるんだから」
そういうと蔦重はクスッと笑った。
不思議だな、と思いつつも座敷にすわると多江は、改めていった。
「実は、今日は玉木屋の方からお願いごとがあって、それで来ました。
8
「ああ、版木かい。それなら、山桜の一枚板のいいのがあるよ。木目が細かくて、彫りやすい。あんたのとこの作治さんのように、丁寧な仕事をなさる職人さんにも、きっと気にいってもらえるに違いねえ」
「よかった。蔦重、いえ、蔦屋の旦那さん、ほんとうにありがとうございます」
「やはり、山桜が一番だよ。近頃の職人は、彫れりゃあ、なんでもいいってのが多いが、そんな手合いには、うちの彫りは頼めねえ。その点、あんたんとこの作治さんなら、安心して頼めるってもんだ」
多江は嬉しさで顔を赤らめていった。
「旦那さん・・・・・・」
「おっと、多江ちゃん、旦那さんってのは、なしだ。蔦重でいいよ。お父つぁんに連れられてきてた頃は、いつも、蔦重、蔦重って呼び捨てにして・・・・・・」
「そうでしたか。すみませんでした」
多江は深々と頭を下げた。
その時傍らにいたという父の困った顔さえ浮かんでくるようだった。
「そういりゃあ、えば、あんたが言ってた男だけどさ、あんたのおとつぁんが、最初にここに連れてきたんだよ。やけに絵のうまい子がいるって。何、ほんとは役者なんだけどね。あんたも芝居小屋で見たことがあるんじゃねえか」
蔦重は意味ありげに笑う。
「ああ、それで、どこかで会った気がするんですね」
「いい男だろう! 多江ちゃん、惚れるんじゃねえよ」
「そんな」
多江は赤くなった。
「女は、みんな、あの男に惚れるんだ。女だけじゃねえ、男もな。谷町からも引っ張りだこで。けど、あいつは、そんなものに興味ない。役者だって、本気でやってるんじゃねえ。いつだって、何をやってたって、あいつは、上の空なのさ。あいつが興味を持つのは、絵を描くことだけだ。しかも描く絵と言ったら、どれもこれも目を剥いた大首絵ばかり」
蔦重は、横目で多江の顔を見ながら意味ありげに笑う。
「お多江ちゃんは、あんな男、好きになっちゃいけないよ」
「好きだなんて」
「ほ、ほ、ほ。顔に書いてあるよ。女の人はね、みんなあの男を好きになるのさ。何しろ、役者で優男だからね」
多江は自然に頬が赤くなる。
「ほら、切られ与三郎なんかやらせたらうまいのさ。うますぎて、多分ホンモノよりホンモノ過ぎるくらいなのさ」
「本当みたい、だったら、いい役者さんなんでしょ」
「ところが、そうとも言えない。いい役者ってわかる」
「さあ」 多江は首を傾げる。
「作って、作り込んでそうなってるならわかる。だけどね、あの男は、すぐに役の中に入り込んで、役の中の人になってしまうのさ。つまり、舞台の上に、ホンモノの人殺しが存在してしまうのさ」
蔦重のおじさんの言うことは、難しすぎてどうもよくわからない。ほ、ほ、ほ、と蔦重は女のように笑う。
「だけどね、あの男の描く大首絵は天下一品さ」
役の上の性格だけじゃなくて、役者の人間としての姿も描き出しちまうのさ」
「……」
「怖いだろう。役者にとってあんなイヤな絵描きはいないんだ。自分の隠してる本性まで、白日のもとに露わにされちまうんだからな」「ふーーん、そうなの」
「だから、役者仲間に嫌われちまって、気の毒に、本職の役者としても干されちまってる」
「だからあんな暗い顔をしてるのね」
多江はため息をついた。
「気の毒に」
「気の毒?」
蔦重はまた、ははは、と笑った。
「いや、あんな顔でいるのが、あの男にとって一番幸せなのさ。あんな顔で不満や不幸せを体の中に充満させて、小野人生への不足感から、あんな怪物みたいな顔の絵を生み出すのさ」
9
あの男、斎藤十郎兵衛は、痩身をかがめるように歩く一見貧相にも見える男だった。あんなふてぶてしいほど人を食った大首絵を描くような、図々しさや外連味はなく、目をどこかはかなげに中のどこかに向け、着物の前がさばけてすうすうしてるのも気にせずにひょうひょうとした様子で歩いていく。
「はだけた胸に、あばらが浮き出てるに違いない」
貧相な男の嫌いな、おゆらが馬鹿にしきった顔で言う。この前までは、多江もそのように思わないでもなかったが、先日父の工房で刷り上がった一枚を見てから考えが変わった。首絵の役者の顔はぞくぞくするほど怖くて、それでいて引き込まれずにはいられなかった。ふてぶてしくて魅力があった。
あの写楽という男はどうなのだろう。ちょっと育ちの良さそうなのに、寒々と着流しにし、金とも縁のなさそうな寒々とした感じだが、あのふてぶてしい大首絵の作者だと思えば逆に別の魅力が出てくるように思えた。
多江は気がつけばそうして、いつでもあの役者のことを考えていた。ボーッとしていて、気がつけばいつもそうなのだった。多江は夢の中であの大首絵の男が江から抜け出して多江の横に立っていた。その男は悪い男なんだ、と知っているのにそばを離れることができない。
「馬鹿なことはお言でないよ」
おゆうが釘をさした。
「あんな男は、あんたのようなやさしい娘の同情を煽るのなんか、得意中の得意なんだから、卑怯な男さ。あの人についてっちゃ駄目だよ」
こんな時、継母の言い様はずいぶん意地悪に聞こえる。生みの親が言うならもう少し素直に聞く気になるのだろうか。 あの人は、不器用で、生き方が下手なんだ。きっと、あたしなら、あの男を世間の目から守ってやれる。そう思ったのも、まったくおぼこ娘の無知としか言いようがなかった。
10
「ああ、こりゃあ、いい版木だ」
多江が蔦重の耕書堂に行った翌日、早速店の手代が版木を届けてきた。作治は早速仕事に取りかかった。良い下絵と版木があればそれだけで作治は満足なのだ。そんな姿を見ながら、
「お手柄だよ。多江」
ゆらは満足げに言った。 それにしてもゆらは娘の多江にとって、いつまでも怖い母だった。
数年前、多江がまだ少女の頃に、店にやって来たお静さんが、ゆらがいないと見て取ると、すーっと多江のそばまで来て耳打ちした。それは、父が亡くなって間もなくの頃だった。
「あんた、平気かい」
多江は驚いてお静の顔を見つめた。
「いえね、心配してるのよ。なさぬ仲の母と娘が二人っきりで一緒に住んでるって言うのがね。町内の人もみんな気になってるのよ。何かあったら困るって。何しろ、ゆらさんは今じゃ、貞女だって顔をしてなさるけど、元吉原の遊女で、しかも好きな人ができて、心中までしようとしてたのを、あんたの父親、清吉さんが二百両で身請けしたっていうのさ。ほら、あんたのところの玉木屋も、その頃は羽振りが良かったからさ。今ではすっかり見る影もない家の中で、清吉さん亡き後、なんで生さぬ娘の面倒を見るもんか、って。だから、多江ちゃんの話を聞いてきてくれって頼まれたのよ、顔役さんに。ほら町内で何かあったら困るって」
多江は笑ってこたえた。
「おばさん、ありがとう。でも大丈夫。おっかさんは、いつも、大事にしてくれてるから。あたしは、自分よりあんたの身のほうが、可愛いんだよって、いつもいってるわ」
「まあ、口ではなんとでも言えるでしょうからね」
お静はそういうと、ちょっと拍子抜けした感じで帰って行った。
間もなくゆらが戻ってきたが、お静が留守の間に来ていたことも、聞いた話のこともひと言も伝えなかった。言わない方がいいような気がしたからだ。









