母親に「鬼の子」といわれる不幸な子ども時代を過ごした喜多川歌麿(染谷翔太さん)。だからのちに余計に幸せそうな美人画を描いたのでしょうか

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第18回べらぼう、喜多川歌麿(染谷将太さん)がどういう人なのか、どういう過去を背負った人なのかを悲しいほどに描いてました。

いま、毒親とかいいますが、そういうレベルを超えた凄い母親でした。

火事のあった日、唐丸は母親を見捨てたのですね。そして、それが心の重荷になっていた。子供の頃、蔦重(横浜流星さん)のそばで過ごした日々は幸せだったでしょう。けれどやむなく、蔦重のそばを離れるものの、やはり蔦重のもとに戻ってきます。きっと、それは、蔦重のそばにいる自分がいちばん、幸せだったから、

のちに再会したのちも、自分だと言い出せなかったのも、ずっと母親が心の重荷になっていたからでしょう。

不幸に育った人だからこそ、あんな優しい雰囲気の美人を絵の中に出現させられたのかも知れませんね。あるいは、絵の中に自分の求めていた理想の母親の姿を描いていたのかも知れませんね。

蔦重のもとに戻ってきて、歌麿という名をつけてもらい、この自分の名で好きなだけ絵を描ける喜びは大変なものだったでしょう。

捨吉だったときのくすんだ様子、そして、
「あのときの約束を守らせてくれ、おめえを当代一の絵師にする」
と蔦重にいわれたときの最高に嬉しそうな表情。この変化が素晴らしかったですね。

蔦重は、多くの作家や絵師の才能を見いだし社会で活躍させました。江戸文化から続く日本の文化への貢献は計り知れないものがあると思います。

源氏物語の紫式部につづいて蔦屋重三郎という、日本文化に計り知れない貢献をした人々を再認識できるのは嬉しいですね。

寛政三美人(喜多川歌麿) 画像はウィキペディアから

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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