ブローティガンの詩「東京日記」を読んでいると、子供の頃のいろいろなことを思い出す/聖火ランナー

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画像はウィキペディアから

歳のせいか、ブローティガンの詩「東京日記」を読んでいると、自分が子供だった頃のいろいろなことを思い出す。

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聖火ランナー

1964年の秋、私は友人2人とその母親の4人連れで、県庁所在地に向かって白い国道を歩いていた。午後の、日差しが弱まってくる時刻だった。何本かのバスが傍らを通過していったが、どれも満員で、停まって私たちを乗せてくれるものはなかった。

その日は東京オリンピックの聖火ランナーが、県庁所在地の街を走り抜ける予定だったから、
近在の者たちは、みんな県庁所在地を目指したのだ。電車で、あるいはバスで。そういうわけで、あまりにも多くの人がそこへ向かったので、乗れるバスは一台もなくなってしまったのだ。

オリンピック聖火ランナーなんて、滅多に見られるものじゃない。どんなにそれを見たかったことか。でも歩いているうちに、だんだん何のために歩いているのかわからなくなった。

二時間ほども歩いてくたくたになって、通過地点にある巨大なイチョウの木の横で私たちは聖火ランナーが来るのを待った。そしてまた、恐ろしく長い時間が流れ、そのとき、急に私はポケットに入れた小銭入れがなくなっていることに気がついた。そこには往復のバス代が入っていたのだ。

私は気もそぞろになって、なくしたとも言えずに恥ずかしくなって、イチョウの根方の辺りをさがしたがどこにもなかった。きっと歩いてる途中、汗をふくためにポケットからハンカチを取り出したときになくしたんだろう。

そして、ついに聖火ランナーがきた。みんなが、おおーと叫んで、人々の頭の向こうをまぎれもなく聖火ランナーが通ったのを知ったが何も見えなかった。小銭入れをなくしたことに気落ちし、見る元気もなくしていた。
そのときの出来事は、その後の私の人生を暗示しているような気がしてならない。


テクテク歩き続けること

間抜けなこと
お金のない哀しみ(__;)

この3つだ。神様はこうして時々、過去の自分と現在の自分とがつながっていることを教えてくれる。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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