ツグミ団地の人々〈苦い水4〉

 せかせかと席に戻る途中、中年女の二人連れの椅子に杖をぶつけて危うく転びそうになる。ジョギング帰りらしい派手なウェットスーツを着た女たちは、あら、と言って平八に白い目を向ける。女たちの体はでっぷり太っている。
 二人の女の間から、コッカスパニエル犬が背もたれに前脚をかけ、こちらを見ながらしきりに尻尾をふっている。

 平八は、椅子に腰をかけ頭を何度かふった。
「困ったよ、頼み事をされちゃって、バスで出かけないといけないことになった。病院の予約もあるし。なんとか診察券を取り戻してこないといけない」
「無理ですよ。やっぱり、今日のところは観念して、病院に行くしかないでしょう。一度すっぽかしたら、金輪際診てやるもんか、ってことになるかもしれませんよ」
 タカ子が子供に言い聞かせるように言う。

「そうかね」
「そうですよ。出掛けるのは、明日に延ばしたらどうですか。なんなら、あたしがバス停まで送ってもいいし……」
「ああ、そりゃあ、ありがたいなあ」
明日にしろ明後日にしろ、とうぶん遠出なんてできっこない。何しろ年も年なのだから。

「いやあ、膝の後ろのところが、痛くてかなわんよ」
 平八は情けなそうな顔で言って、膝の裏側をなでた。
「曲げないでいるより、ゆっくり動かしたほうがいいかもしれませんよ。なんならうちの診療所に予約とりましょうか」
「いや、結構だよ。どうせ、君のような見習しかいないんだろう」

「まあ、失礼な」
 そう言ったきり、タカ子は老人に背中を向けてしまった。

「軽く曲げたり、伸ばしたりしたらどうですか」
 仕方なく美佐子がカウンターの中から声をかける。
 そして、よく知りもしないのに、いかにもそういった事情に精通してるのだ、といわんばかりの顔で鶴田老人の膝のあたりを見やった。
「そうかね。どうするの?」
 爺さんはふっくらした頬に、実に素直な笑いを浮かべて美佐子を見ている。
「こうですよ、こう」

 たまらずカウンターの外に出て、軽く屈伸運動をはじめる。平八も負けじと横に立つ。杖をカウンターに立てかけたままなので、やや前のめりの姿勢だ。そして息を吐きながらゆっくり尻を落としていく。
 自力で立っているのは叶わないから、ほとんどカウンターにぶら下がった状態である。
 コッカスパニエル犬が後ろ脚で立って、黒いビー玉みたいな目を見開いてびっくりしたように見つめている。平八の樫の木のステッキがズルズルと床にすべり落ちていく。

 平八は元気になって、また隣町の彼女に会いに行きたい。今妻のスカーフは胸ポケットにねじ込まれ、少し飛び出したまま上下するたび揺れている。十何回目かの屈伸運動の後、「ええい、クソッ」そう叫んだとたんに脚がもつれてカウンターに体ごと倒れこんでいった。
  扉にはめ込まれた磨り硝子から強い午前の陽が差し始めている。

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