ツグミ団地の人々〈レモンパイレディ9〉

掲示板の内容というのはこういうものだった。

『最近、犬や猫を飼っているお宅があるようです。動物の毛が飛んできて迷惑していますので、すぐに飼うのをやめてください』って」

「ふーん」

 父さんはネクタイを首に巻きつけながら言った。

「きっと、岡田さんが管理組合にチクったのよ。ああ、やっていつもうちの観察をしてるんだから」

僕はなんとなくそうではないと思ってる。バスの中の会話についていおうかと思ったが、やめておいた。母さんををこれ以上興奮させてはまずいと思ったからだ。。

 

それが始まったのは、9月に入って間もなくのころだった。

 玄関を出た母が凍り付いたように立っていた。ドアの外側にべたりと白いクリームが塗りつけられ、床には崩れたスポンジケーキがぼろぼろとこぼれ落ちていた。夜中にそれが行われたのか、元々腐っていたのか朝の通路にこもる熱気で、クリームはすえた臭いを発散させ始めていた。

 母は呆然と立ちつくしている。その時、岡田さんのベランダ側の部屋から人の影がちらっとのぞいたような気がした。

 その日はどういうわけかタイミングが悪く、家のカギを忘れていて、悪い予感が当たって母も部屋にいなかった。不都合というのはいろいろな悪いことが重なって起こるものだ。

 気がつくと真後ろに岡田さんが立っていた。

「ぼっちゃん、うちのベランダから、あんたの家のベランダに、避難板によじ登って入れるんじゃないかしら」

 岡田さんの目が妙な光を発している。

「そうしたら、そうすればいいよ」

「はい」

「だいじょうぶでしょう。あんた男の子だもの」

 岡田さんは意味不明なことを言った。 

部屋の中はよく片付いて清潔だったが陰気だった。きっと部屋の半分ぐらいまで引かれた、分厚い青色のカーテンのせいだ。深い海の底にいるような気の滅入ってくるよう濁った濃い青色だ。その奥にもう一つ室があった。

 岡田さんがいつも僕の家をのぞいているベランダのちょうど真後ろのあたりだ。六畳敷きくらいの和室のまん中に大きなベッドが置かれていた。

 ベッドはよく病院なんかにあるような鉄製のもので、高さがとても高く、硬いスプリングでちょっと腰を下ろせば跳ね返してしまいそうなしっかりしたベッドだった。そこにだれかひとが寝ていた。といってもかけ布団がほんの少し盛りあがっているだけなので、小さな子どもなのかもしれない。眠っているのかまったく動かなかった。

 奥のほうにタンスが一つだけ置かれている。桐のタンスで白っちゃけていて白い黴でも覆っているように見える。

「あの鉄の柵のせいで部屋に光が射さないのよ」

 岡田さんは残念そうにいった。

「でも、ちょうど良かったのよ。あの子が病気になってからは、直射日光を嫌ってね。『母さん、まぶしいから、カーテンを引いて』って言うのよ」

 岡田さんはちらりとベッドに目をやり、ひっそりした声でいった。
 そちらを見たが、その途端あっと叫んでいた。

 小さい女の子がベッドの上からじっと僕を見つめていた。僕は驚き、恐怖のあまり脚がすくんで動けなくなった。それなのに女の子の顔から目を離すことができなかった。少し笑ったようだった。

それで僕も笑おうとした。でも不可能だかた。どうしよう。そう思っていたら、岡田さんが後ろから言った。

「どう、坊ちゃん。うちの娘は可愛いでしょう。この子はね、口がきけないんだよ。でもいつも友達ほしがってるの。坊ちゃん、お願いだから、あの娘の友達になってくれないかしら」

女の子の目は動かない。僕はようやく女の子が人形で、その目がでできているんだってわかった。「あの娘はね、体がベッドの上であの娘はいつも眠ってるのよ。名前を呼ぶんだけど目を開けないの。よっぽど眠いのね」

 岡田さんはカーテンのせいで青く見える顔で話し続ける。

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