抜け道 (6)

 ガードレールの下をくぐると目の前が開け、通り沿いに古くからの商店が並ぶ、路地が口を開けている。そこから大勢の女が出入りしていた。一人、あるいは数人並んで彼の鼻先をかすめていく女たちは、だれも彼を見なかった。まるで彼の姿は目に映らないようであった。

 背の高い、少女のような女が、路地の外れにある肉屋の前にぽつんと立っていた。腕に下げた袋から緑色と白のネギが顔を出し、エプロンの上に健康そうなうなじが細く伸びて、後れ毛がほつれている。
 ひょいと彼を見たまなざしは、しばらく離れなかった。
 瞼の上に青い色が重たそうだった。彼にはその娘が紫苑の花のように思われた。彼に向かって笑いかけるとうすい鼻梁のあたりだけが貧相に見えた。笑いやむと女はすぐに背中を向け、肉屋の庇の下をくぐり抜けて路地の奥へと入っていった。彼はしばし陶然として立ちすくみ、すぐに気がついて後をおった。

 女、若い女(彼の目から見てはだが)、老いた女たち、夥しい数の女たちが、狭い路地の中を歩いていた。買い物袋を提げて歩く女、数台で乳母車を連ね、話しながらぶらぶら歩く女たち。老人に目を向けるのはたいてい一人きりの女だ。連れだった女たちは笑いさんざめき、風のように彼の横を通り過ぎていった。

 彼の目は人混みの中に、さっきの娘の姿を探した。けれどその顔を彼はもう正確に思い描くことはできなかった。顔の輪郭はおぼろげに消えかけていた。女たちの顔は、どれもさっきの娘に似ているようで、どこか違う。人の肩や肘にぶつかりながら、前へ前へと進んでいった。

 十メートルばかり前を、上背のある女が歩いていた。
 ある店の前で急に立ち止まると、それをよけようと周囲にさざ波のような波紋が生じた。店頭に並ぶ品物を真剣に見つめる横顔も、さっきの娘とは違うようだ。彼は片足を引きずるようにして、アーケードの中央まで進んでいった。

 両側に靴や小物や古着を売る店がごちゃごちゃと並び、くすんだ洋装店のショーウインドウの向こうでは、中年女と店員が交互に品物を指さして、深くうなずき合っている。食品店の並んだあたりから、醤油や、だし汁、甘酸っぱい砂糖、ラード、バター、ニンニクなどの、むっとするにおいが漂っていた。

 ふと重曹のにおいを嗅いだ気がして横を向くと、女学生のようなぽっちゃりした顔の少女が、鉄板の後ろで、裏に返しながら今川焼きを焼いている。細長い食堂の奥では、向かい合った客たちが下を向いてうどんのようなのをすすっている。

 古くからの駄菓子屋、餅菓子を並べた店、その先に惣菜屋があり、店先で、前掛けをしたばあさんが、愛想笑いしながら客から勘定を受け取っている。顔を白く塗り、何かいうたび、歯のない歯茎が丸見えだ。口で指を湿らせて札を数え、店の中央に吊り下げられたかごから釣り銭を出そうとしたときに、どこからかハエが飛んできて、ばあさんの体の周りをくるくる回った。

「いやだよー」ばあさんはふいに気弱な顔をして、二、三歩後ろのよろけ、そのまま店の奥へと引っ込んだ。
 ハエは目当てを失いひょろひょろと飛んで惣菜の入ったガラスケースに留まった。そのまま中の惣菜を伺うようにハエはじっと動かなかった。、

 路地の外れは客のいない呉服屋で、藍地に白い花の浮き出た浴衣を着た女が店の奥に座ってゆっくり団扇を動かしていた。そこは暗く、女の手も顔も白い。
 紫苑の花――、子供のころ、その花の名を教えてくれたのは、母親だった。

 どうしてか、その娘の目は光の加減で青みがかって見えた。彼の顔を見るとすぐに笑った。白い小さな歯が横にまっすぐ並んで、微量の細い鼻だけが貧相だった。彼も途端に顔をくずしたものだった。何しろその顔ときたら、彼を見るのが嬉しくてたまらない、というようだったから。その時彼は、娘の体を引き寄せて死に運ばれていく瞬間を夢見た。

 

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