玉木屋の女房 〈20〉
「湯漬けが冷めちまうから、早く呼んでおいで」
ゆらに言われて、工房に足を踏み入れながら、多江は二人に声をかけた。
「お昼をお上がりなさいって、おっかさんが呼んでますよ」
「ああ、多江ちゃん、もう少しで区切りの良いとこまでいくからちょっと、待ってておくんな」
作治が下を向いていたせいかちょっとむくんだ顔を上げる。それに合わせて彦次郎もこちらを見る。大きな澄んだ目がぴたりと多江に向けられている。
その目を見ていたらふいに写楽のことを思い出した。役者の方ではない。役者の大首絵を描いた男の顔だ。ふてぶてしくてどこか寂しい。大首絵の役者と同じ目をした男のことだった。
あまり見ているものだから、彦次郎が怪訝そうな顔を向ける。
多江は少しドギマギして、
「じゃあ、おじさん、彦さん、よろしくお願いしますね」
そう言って多江は奥の自分の部屋に戻っていた。同期はなかなか収らない。というのは、おとつい、ゆらに頼まれて買い物に出た多江は、無意識のうちに役者小屋の前まで行っていた。
小屋の前には、のぼりが立ち一座の名前は大きく書かれている。小屋の前には、香盤表とともに今出ている役者の絵が張られている。多江は一枚一枚単塩に見て行く。
「あの人の顔はない」
この前まで、本当にあったのにどうしたのだろう。まさか「上方の芝居に出る」って言ってたけれど、ほんとにもう行ってしまったのかしら。それとも、まさか・・・・・・。
「多江ちゃんじゃないか」
ふいに言われて振り向くと、写楽いや十郎兵衛がそこに立っていた。最近いちだんと痩せたようだ。はだけた胸に、あばらが浮き出ている。
この人の描く大首絵の役者の顔はぞくぞくするほど怖くて、それでいて引き込まれずにはいられないふてぶてしい魅力がある。それなのに絵師の写楽は、寒々と着流しにし、金とも縁のなさそうな貧相な男だった。役者としてもちょっと冴えないが、多分あのふてぶてしい大首絵のほうに精力を全部吸い取られている、いや、捧げているのかも知れない。逆にあの絵の作者だと思えば逆に別の魅力が出ているように思えた。
「上方に行くんですか。それともやめにしたの」
「いや、行くよ。三日後に発つ」
「そんな」
多江は驚いていった。
「蔦重の旦那さんが困るでしょう。あなたがいなくなったら」
「何、蔦重はもう見切りをつけてるのさ。もうちょっと迫力のあるのを書けないかって言われたが。その実。もう描けねえ、ってわかってるのさ。だからわたしがいなくなって、ホッとすると思うよ」
十郎兵衛は一寸自嘲するように笑うと多江に向かって言った。
「あんたも一緒に上方へ行かないか」