ツグミ団地の人々〈立春前 8〉
病室にはすでに夕暮れ時の薄い光が窓から斜めに挿している。横になった麻紀さんが何かを耳に当てている。
「それは何?」
そう言いそうになって、里子はハッとして病室の入り口で脚をとめた。そのまま、後ずさりして廊下まで出ると、そっとドアを閉じた。
昨年の秋のことだった。いくらか体調のよい麻紀さんと少し歩いて団地の外にあるコーヒーショップつぐみに行った。団地の人はたまたまだれもいなくて、店主の中年過ぎの女性が暇そうに白い布巾でさじとかフォークとかをから拭きしていた。
「あら、いらっしゃい。お二人ですね」
「奥の席いいですか」
淹れ立てのコーヒーを運んでくると店主の女性は愛想の良い声で言った。
「今日はお客さんがいないから、ゆっくりしてくださね」
「ありがとう。素敵なお店ねえ
麻紀さんが歌うような声で言う。
それから二人はこー^ひーを味わい、お店の自慢のアップルパイも頼んで食べた。
麻紀さんはテレビのニュース番組が大好きなので、ひとしきり政治家のだれそれがどうだとか、明け方まで討論番組を見てしまったとか、そういう話をしたのだった。
「おもしろいわよー、あなたも見てごらんなさいよ」
「うん、そうする」
それから麻紀さんは、スカートに付いたポケットからモソモソと小さなトランジスターラジオのような装置を取り出して、細い線でつながったイヤホンを耳につける。
「聞こえるわ」
「どうしたの」
麻紀さんの目が大きく見開かれている。
「昨夜ね、今日こそ、証拠をつかんでやろうと思って、これをセットしておいたのよ。ほら、ほら聞いて。聞こえるでしょう。聞えない?」
麻紀さんはもどかしそうに震える指先で操作して、イヤホンを差し出すと耳に当てるように言う。「どう?」
「……」
「今聞こえたでしょう。カチャッってドアの開く音。ほら、ほらほら、聞いて」
「ええ」
里子はあいまいにうなずく。
「それから、二人でひそひそと話し合ってるでしょう」
「よく、わからないわ」
麻紀さんはイヤホンを里子から取り返すと、また自分の耳に当てた。
「ほら、聞こえる。女が笑ったでしょう。今度はまちがいなく聞こえるわよ。聞いて」
狂気のような目をこちらに向ける。里子はまた耳に当てる。注意深く聞くが風の呻るような、ふう、という微かな音がしただけだ。
「聞えたでしょう」
里子はあいまいにうなずく。
「ほうらね」
そう言うと勝ち誇った顔で再び自分の耳に押し当てる。目を閉じて意識を集中させる。その顔がほとんど恍惚の表情のように見える