ツグミ団地の人々〈苦い水18〉
鶴田平八が脳梗塞で倒れたと美佐子が聞いたのは、その数日後の夕刻だった。
肩を落とした様子で店に入ってくると皆川は、珍しくカウンターの隅に座った。そして、下を向いてランチの下ごしらえをしている美佐子に言った。
「鶴田のじいさん、どうも危ないらしい」
「そうなんですか。たしか半年くらい前にガンの手術をして、治ったって言ってましたけど」
「ああ、おれもそれは知ってるよ。手術がうまくいったって喜んでたのにな」
「元気そうでしたけどね。そういえば、あのときちょっと気になることがあったんです」
「あのとき?」
「ほら、あなたに絡んだ日ですよ。長州がどうの、水戸がどうのって」
「急にあんな話をするからおかしいとは思ったんだ」
「話の内容はともかく。しまいのころ、ちょっと、呂律の回らないときがあって。それにしても心配ですね」
その時、扉を開けてタカ子が入ってきた。心なしか顔色が悪い。
「たいへん、鶴田のおじいさんが倒れたんだって?」
「あんたは、だれに聞いたの」
「さっき美容室のお客がそう言ってた。自転車で病院に駆けつけたんだって」
「親しい人なの」
「きっと同じ棟の人だと思う。そうでなくても、どこにでも顔を出す人よ」
「とるものもとりあえず、自転車で駆けつけたんだって」
昏々と眠り続ける鶴田平八の横に、奥さんは老猫のような姿で背中を丸め座っていたそうだ。そして泣きはらした赤い顔でをあげると言った。
「さっき、女が病院にきたんですよ。でもすぐに引き取ってもらいました。死なせてたまるもんですか、あの女のそばでなんて。死ぬのならあたしの腕の中で死なせてやりますよ」
とまあ、そんな情熱的なセリフを、しわくちゃな顔で言うので驚いたそうな。
「なんてすごい情熱!」タカ子はそう言って、コップの水をひとくち飲んだ。
「いやあ、女の情念、いや怨念ってのは恐ろしいもんだ」
皆川は無責任につぶやき、美佐子は「わかりませんよ、男性だって」と、一寸たしなめたのだった。
「そうだな、彼はある意味、幸せ者なんだろうよ。あの年で彼女がいて、奥さんもかなり美人だと言う。おれに執着してくれる者などいるだろうか……。そもそも、この前だって、もっとまともに話をきいてやればよかった。彼の絶望に寄り添ってだな・・・・・・」
ひゅう、ひゅうと底冷えのする木枯らしが、窓ガラスの向こうを吹きすぎていった。 春の暖かさはほんのつかの間ぬくんだバラ色の頬をかいま見せたあと、むっつりとどこかに雲隠れしてしまったようだ。
鶴田老人は意識を取り戻さないまま、数日後に息を引き取った。
美佐子が皆川に電話で知らせると、彼は急激な鬱状態に陥っていて、今や電話にも出ないという。
「いつも、お店でご迷惑をおかけしてすみません」
奥さんがていねいな口調で言った。
「今度ばかりは、ショックも大きかったみたいです。何しろ、ツグミ団地に入居してから、数十年来の知り合いで、朝のラジオ体操仲閒ですから……」