ツグミ団地の人々〈レモンパイレディ14〉

 話しかけようとすると母さんは言った。
「し、もう何もいわなくて良いの」
そして懸命にプールの縁にしゃがんでいるふたりの話し声を聞き取ろうとしていた。じりじりと少しずつ前に進んでいく。ふたりがぼそぼそと話している声が聞える。

 父さんの向こうには、小学校の西側の教室が見える。そこには、まだ机やいすがあるんだろうかと僕はぼんやり思った。校舎とプールの間に斜めに朝の日が差している。そうするとプールの中がキラキラ光ってまるで今でも水を溜めているように見える。
 父さんはその手前に、なんとなくボーッとした様子で座っている。そして父さんの横にはもう一人例の女子おじさんがいた。女子おじさんは変だったけど、父さんはまったく普通だった。
 数日前にスーパーの衣料品売り場で買ったシャツを着てよれよれのチノパンを履いて、うんうんって話を聞いてる。

 女子おじさんが一生懸命何かを話してた。
「妻が言ったんだよ。これを着てね。さあ、出かけましょう、って。僕の顔を覗き込んで。でも僕はね、そのころは冷たくてね、だいたい、君一人で行ってくればいいよ、と言った」

 父さんがおじさんのほうを見て何か言ったようだ。女子おじさんはゆっくり首を振るとまた言った。
「そう・・・・・・、彼女は寂しそうに言ったんだよ。じゃあ、私一人で行ってくるわ。そう言って出かけ、僕は一人でね、机に向かってたんだ。そして彼女が戻ってくる時ね、いつも楽しそうに帰ってきたよ。ああ、おもしろかった。あなたも一緒なら、もっとよかったのに・・・・・・。その間、僕は何をしていたんだろう。しなければいけないことなんてほんとはなかったんだ」

 父さんが微かにうなずいた。
「なぜ一度も一緒に行かなかったんだろう。僕は今でも後悔してるよ。だからこの服を着て、いつもどこにでも彼女と一緒に出かけてるんだ。映画館にも公園にも美術館にもデパートにも行くよ。なぜ二人でいるとこんな楽しいんだろう。人生ってこんな楽しいものなんだな、と思ったよ。なぜ一緒に行かなかったんだろう。僕は一度も・・・・・・」
 おじさんは泣いているようだった。

 父さんは背中を向けたままだ。しょんぼりして見える。まさか父さんまで泣いているんじゃないだろうな。だいたい大人の男の人が泣くというのが信じられなかった。大人の男の人はいつでも偉そうに堂々としてるもんだと思っていたから。
 この時僕は大人になったのかもしれない。いや、大人の入口に差しかかったというべきだろう。

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