ツグミ団地の人々〈立春前 4〉
昨夜もあの棟にいった。一階のエレベーターホールで前屈みになってメールボックスに一枚一枚入れていると、外から入ってきたジャンパーの男がふと斜め後ろで立ち止まのままじっとこちらを伺っているようだ。
「また、出た」
長いこと椅子のうしろあたりに立っている。
何か思い悩んだように突然、「うん」とうなずいたり、身体をかがめる姿勢を取ったりしていた。チラシを見る目の隅にちらちらとその姿が入ってくる。
「わずらわしいなぁ」と思うが、何かを言うというわけにもいかず、なるだけ気に掛けないようにしながら黙々と、紙片をメールボックスの中に挟み込んでいく。
シャッシャッシャッと、ちらしをメールボックスに入れる音ががらんどうのエントランスに響いた。
ほの白い明かりの中にちらしが白々と光る。外には闇が濃く広がっていた。
始めてもう六ヶ月になるので、そこそこメールボックスの細い隙間に入れるコツも身について、かなりのスピードで「カシャカシャ」とふたの開き、閉じる音を響かせながら次々と紙片を入れていく。ふいに後ろで声がして里子はびくっとする。
「いないなあ」男がつぶやいた。
話しかけられたのかどうかもわからないまま、後ろに首を曲げた。男の細い目と不釣り合いに鯉眉が目に入った。目があった。身体も顔も細くて長い男だった。
「山根っていうんだけど、知らない?」
「山根さんですか」
里子は、うなずいた。
ちなみにそんな名の人は聞いたことがないが、端から一軒ずつボックスに書かれた名前を読み上げていく。「山口、山田、山本・・・」
振り向いて断言する。
「山根さんは、いないようです」
男は相変わらず無言のまま後ろに立っている。ぼーっと立ったままである、何かおもしろくない気配が伝わってきて、ふいに後ろから、羽交い締めにされている自分を想像する。ぶるっと身震い、すぐに後ろを振り向くと、里子は思いきっていった。
「ひょっとしてそのお宅は、この棟じゃなく、隣の棟なんじゃありませんか」
細い小さい声で、喉から絞り出すようにしていった。
「ああ、そうかもしれないな」
男はあっさりと言って、右手に封筒のようなものを抱え持って、エントランスから外に出ていった。月がほそぼそとした光を放ち、草を白く照らしていた。男が隣の棟に向かったのかどうかは知らない。
数日後、里子は夢の中で風呂に浸かっていた。もちろん夢だとは知らない。その時、ふいに後ろからそっとしのびより、甲子利した両手で里子の首をしめた。
里子はもがき、その手を必死でふりほどこうとしていた。あまりにもリアルだった。首筋が息苦しく男のごつごつとした手の感触さえ残っていた。
意識を失いかけながら、ああ、自分はこうして死ぬのだな、と思った。意識が遠のきながら、こんなに油断の多い生活をしていた自分が悪い、心の中に苦い思いがいっぱいに沸き出し、後悔の念でいっぱいになった。