「光る君へ」、本郷奏多さんの花山天皇楽しみです。「花山天皇のくるひ」ともいわれた悲劇の天皇、在位わずか2年未満でした
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
大河「光る君へ」、一条天皇役が塩野瑛久さんに決まりましたね。あまり存じ上げなかったのですが、とても美しい方なので驚きました。
ところで花山天皇役の本郷奏多さんも負けず劣らず美しい方です。
在位の短かった花山天皇。悲劇の天皇ともいわれ、また風変わりな行動が目立ったことから、「花山帝のくるひ」といわれて貴族たちの嘲笑をかっていました。
あえていえば「くるひ」というより、
むしろ繊細で傷つきやすい心の持主だったのでは、という気がします。
冷泉天皇の第一皇子で、母は藤原伊尹の娘・女御懐子です。
外祖父の藤原伊尹は折衝・太政大臣でしたが、天皇が幼いうちに亡くなります。
その後、相次いで叔父たちや母もなくします。
後ろ盾のない即位
即位は17歳の時。
後ろ盾のない中での即位は、つらいものでした。
それでも、がんばって政治をしようとしましたが、
まわりの藤原家の人々は協力するどころか足を引っぱる始末。
なんともお気の毒なお立場でした。
そんな中、寵愛していた女御忯子(井上咲楽さん)が亡くなります。
気落ちする花山天皇。
しめた!と思ったのが藤原兼家です。
兼家は一刻も早く、孫の皇子を即位させたかった。
内裏で泣き暮らす帝のもとに次男の道兼がおとずれます。
「そんなにおつらいなら、出家されてはいかがですか」
とすすめます。そして、
「私も出家のお伴をします」などと調子を合わせます。
だまされた花山院
そして月明かりの中、宮中を抜け出し、
連れだって寺に向かいます。着いたところで、
「私は、父と母に別れをいってきます」
そういって、花山天皇を置き去りにし、
帰ってしまう道兼。
天皇は、自分がだまされたことに気がつきました。けれど、あとのまつり。
御年19歳にして、花山天皇は院になられたのです。
(寛和の変)
花山天皇、絵でも美形です(ウィキペディアからお借りしました)
放浪と歌詠みの日々
それから修行のような、放浪の旅のような生活が始まります。その中でも和歌をたくさん作っていて、評価がすごく高いとは言えないかもしれませんが、私はこの方の和歌が大好きです。
旅の空夜半の煙とのぼりなば
あまのもしほ火たくかとやみむ (大鏡)
昔より風にしられぬともし火の
光にはるる長き夜の闇 (粉河寺御詠歌)
強くなく偉そうでもなく、心やさしい院の心情が表われているようです。
一寸今の時代の詩人のような感性だと思いませんか。
放浪の際、どのような心情だったのでしょう。想像すると、心に迫ってくるものがあります。花山院について、また後ほど紹介させてください。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
☆西国三十三所観音巡礼は、花山法皇が自ら歩いて復興させた癒やしの旅
コメント2件
[…] また、あの傷は、愛されない道兼(玉置玲央さん)が、父に叩かれてできた傷と思いこんでいた。花山天皇(本郷奏多さん)もすっかり信じていたのに…、自分で付けた傷だったとは。汗 それにしても道兼があわれだ。そうまでして、父の意向に従いたいのか。それしか父に愛される術はないのか。そのとき道長はどんなに兄を軽蔑したことか。父の愛を欲する道兼の少し悲しげな目に、寂しい花山天皇の心が共鳴してしまった。亡き弘徽殿の女御忯子(井上咲楽さん)を忘れられない帝はむしろ純粋な少年に思える。政治だって、懸命に善政をしようとしていた。ただ、まだ心が幼すぎたのだ。そこに、寛和の変という悲劇が起ってしまった。 […]
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