抜け道 (4)
大通りへ出る石段にさしかかった。急ではないが段数が多い。
彼は立ち止まって見下ろしたあと、片足ずつ慎重に下り始める。石段のちょうど半ばあたりまできたときに、下ろしかけた膝に痛みが走り、彼は慌てて足を引っ込めた。そのまま上半身を傾けて、膝頭の下から上にかけて何度か手で撫でさすった。
眼下に、新しい住宅地の家々が、平たい屋根を重なり合わせていた。
昔はどの家の屋根も、あんなに白っぽい色をしていなかった。日が暮れてしまうよりも早く、闇に沈んで見えたものだった。
彼は姿勢をしゃんとさせ、再び足を前に進めた。少し縁の欠けた長い石段、彼はそこを毎日下りる。散歩は朝の主なる日課であった。
下りきった右手が月極の駐車場で、同じような型の車がまだらに並んでいる。その先にぐるりと派手な緑色のフェンスで囲った市の運動公園が見えている。
グラウンドの中ほどに、朝から老人たちが集まっている。老人たちは手に手に棒のようなものを持ち、背中を曲げた年寄りじみた姿でぼんやりと立っている。その中の一人が彼に気がついて片手を上げた。目をこらして見ると、近所に住む岩崎というやもめの知り合いであった。
かつてメーカーの宣伝部長をしていて、現役時代、広告代理店の人間を何人も怒鳴りつけ、首をすげ替えてやったというのが自慢の男だ。七十をいくらか超え、持ち家に長男夫婦と同居しているというけっこうなご身分なのだが、ある日、嫁さんが彼の下着だけ取り分け、別に洗っているのを見てショックを受けた。
そんな風な話をこの前、たまたま道で会ったときにしていた。
その岩崎皓一が中途半端に片手を上げたまま、のろのろと彼の方に近づいてくる。しまった、さっさと通り過ぎてしまえばよかった。
彼は岩崎が苦手だ。手にした棒のようなものを振りながら、イタリア歌曲か何かの一節を朗々とうたっている。若い頃、イタリアのミラノかどこかに何年か住んでいた。それも岩崎のもう一つの自慢だ。頭の上に、派手なチェックのハンチングを乗せている。彼は身の置きどころがないような気持ちになった。
背の高い岩崎は、フェンスにもたれる格好で彼を見下ろした。
「あれ、なんていうか知ってるか」
ゲームに興じている一団の老人たちを顎でしゃくった。
「グラウンドゴルフっていうんだ。今日び、ゲートボールは流行らんのだ。勝つために相手の球を妨害するんで、遺恨が生じるからな。やってみると、なかなかおもしろいもんだ」
岩崎は苦虫を噛みつぶしたような顔でいった。
「この前なあ、息子の嫁さんが、俺が体にさわったって息子にいいつけやがった」
彼は、ゆっくりうなずいた。
「親愛の情のつもりで、後ろからぽんと肩に手を置いただけなんだ。家族だものなあ、それくらい、いいじゃないか」、岩崎は泣き言をいった。
「オヤジ、家庭内セクハラはやめろ。そう息子がいうんだぜ」
というわけで、昼間も家に居づらくなり、あちこち出歩いていたのだが、この前ばったり中学の同級生に出くわし、誘われてきてみたのだという。
「会社にいけばいつだって、いっしょに飯ぐらい食いたいってやつがいるんだが、ちと遠いからなあ」
岩崎は痩せた細長い顔に不釣り合いな大きいハンチングを脱いで、額の汗をぬぐった。額は左右2カ所で大きく後退している。フェンスにもたれ、肩越しにちらっと後ろの老人たちを見ると、うんざりした顔でいった。
「あんたもどうですかね、ご一緒に」
使い慣れない、ていねいな口調になっていた。
彼が断ると、岩崎は西洋人のように肩をすくめ、右肩を下げる歩き方で、ゆっくりと仲閒の老人たちの方に戻っていった。
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