ツグミ団地の人々 〈小鳥が逃げた 1〉
台風が近づいていた。ドアを開けると突風が塊となって店内に吹き込んできた。
「何してるの。早くドアを閉めてよ」
みんな風に目がくらみ立ち上がることさえできない。
「ほんと、だらしがないんだから」
そんな悪態をつきながら、美佐子はドアノブを引っぱってどうにか扉をもとのように閉じた。
風は外で渦巻いている。けれど店の中には、ときたま外で物の倒れる音が聞こえる程度である。
美佐子は十年前に夫と離婚して以来、私鉄の小さな駅のガード下でコーヒーショップをやっている。多少の貯金もあるにはあったが、そのまま使ってしまえばすぐに底がつくのは目に見えていた。奥行き七、八メートル、幅三メートル半ほどの二人がすれ違うのがやっとくらいの店だが、曲がりなりにももう八年続けてきた。
一人娘の奈々が大学を出て間もない頃、コーヒー豆を輸入する仕事を仲間としていて、一度そのデモンストレーションのようなものに呼ばれた。半屋外のような広い板張りの会場は、豆の産地の南米をイメージしていて、南米の陽にじりじりと焼かれた健康的なコーヒーの味がした。
「大陽の味がするでしょう。遺伝子組み換えをしていない豆なのよ」
奈々は得意そうにいった。
「ちょっと酸味もあるわね」
「それがカカオ豆の本来の味なのよ。国は一時戦争で荒れたけど土地にはこんな芳醇な味の実を成らせる力があるのよ」
そして中学の友人ふたりでコーヒーの販路をつくったりして頑張っていたのだが、突然、友人が取引先の南米出身の男と海外へ行ってしまい、娘も嫌気がさして仕事をやめ、間もなく結婚してしまった。まあ、それはそれで仕方がないかと思っていたが、それも三ヶ月と続かず、育ったツグミ団地にもどってきたのだ。
一緒に商売をしていた幼なじみの咲子ちゃんは今も行方不明で、母親の岡村さんがときどき店を訪れる。そして、たまたま店番をしている奈々に、ぼやいていう。
「奈々ちゃん、せめてあんたにはなんか連絡ないかしら」
奈々はカウンターの後ろから振り返っていう。
「なんにもないんです」
「砂漠のオアシスの町で、咲子にそっくりの女をかけたよ、ってそういう人もいるんだけど。つきあってた男はどこの国のひとだったかね」
「エクアドル」
それを聞いても母親には何の意味もない言葉のように口の中で小さく呟く。エクアドル。
ツグミ団地の同じ3街区なのだが、娘たちが小学生の頃からつきあいはほとんどない。ただ娘ふたりは馬があうのか、しょっちゅう互いの家を行ったり来たりしていた。
「そう。何か連絡が来たらすぐに教えてね」
岡村さんは、力なく笑いながらいった。
やはり同じ3街区に済んでいる高齢男性がいつのまに話しを聞いていたのか、顔を上げて黒文字のような目でこちらを見ていった。
「今ごろ、金持ちと結婚して、よろしくやってんじゃないの」
岡村さんはどんと音を立ててカップを置くと、立ち上がりあいさるもせずに帰ってしまった。美佐子は下を向いてコーヒーカップを洗い続けていた。