午後のサンルーム(1)
明る過ぎる陽がベランダに差している。壁にかけた時計を見ると十二時少し前だった。読んでいた本を、小テーブルに伏せて恵子は立ち上がった。
テーブルの後ろにベッドがある。ここは本来寝室なのだが一人で本を読んだり、手紙を書いたりするときに使う。
隣の茶の間にしている部屋からテレビの音が低く聞こえている。
バラエティー番組でもやっているらしく、司会者の男の声がときどきうわずったように聞こえてくる。そして何人かのどよめきやわざとらしい笑い声。
テレビをつけ放したまま、そんなものを何時間も見て眠くなると座布団を枕にして寝る。それが夫の午前の過ごし方だった。
ふすまを開けるとやはり夫は眠っていた。しかし、軽く口を開いて眠る顔に幸せそうな表情はなかった。
「そろそろですよ」
龍男は返事をしなかった。顔をかすかに動かしはしたが、眉間に深いしわを刻んだまま、目をかたく閉じている。
「行かないなら、あたし一人で行きますよ」
行かないはずがなかった。夫婦にとって食事に出るのは、一日の主な行事なのだから。
恵子は夫に構わず、茶の間を抜けて洗面所にいくと、鏡に向かって髪をとかし化粧を始めた。濃すぎてはいけない。ここでは住人同士だれも、それぞれの過去を正確には知らない。疑ってかかっていては住めないが、相手のいうことをも全部信じているわけではない。
「ご主人は何をなさってたの」
訊かれるといつも、
「普通の会社員だったんですよ」
笑みを浮かべてこたえる。それで充分だった。しかも薄化粧で。
それが夫婦を品のあるものに見せる。違う匂いに、ここの人々は敏感だった。
前髪に白いものが目立つ。今夜あたり、また染め直さないといけないだろう。口紅をひき、最後にもう一度、白粉を軽くはたきつけた。
夫はそんな妻を内心笑っているが、まるで身なりに気を遣わなかったら、それも気に入らないにちがいない。
目を覚ましたらしく、鏡の中に肩ひじをついてテレビに見入る、夫の後ろ姿が映っている。腰のあたりにまた贅肉がふえたようだ。
そう、目をつむることが大事なのだ。龍男もきっと、いろいろなことに目をつむっているにちがいない。
「わたしも、すっかりおばあさんだ」
鏡に向かっていうと、夫の方に振り向いた。
「午後散歩にいかない?」
夫はめずらしそうに妻を見上げた。
「いいよ、まだ寒いだろうが」
手をついて体を起こすと、はみ出していたシャツをズボンの中に押しこんだ。
このケア付き老人マンションの完成と同時に、持ち家を売って入居してからすでに八年がたっていた。みんな年をとった。けれど、だれもが同じように年をとっているので、それに気づかない。
ここでは時間の進み方がゆっくりだ。まるで時間のパラドックスに迷い込んだように。永遠にここに住むのではないかと錯覚する。
恵子たちの二間だけの住まいは、十階建ての棟の六階にあった。
部屋を出ると龍男が合鍵でロックした。三つ下の階の食堂に行くにも、エレベーターを使う。階段もあったが、わざわざ廊下の隅まで歩いていって、そこを降りる気にはなれなかった。
◇ ◇
広々とした食堂に、テーブルといすが均等な間隔で並んでいる。中央に大きなシャンデリア。けれど、今は点灯されていない。窓から明るい光が差し込み、襞の多いカーテンがその陽をやわらげている。
通路は老人たちと給仕するウェイトレスでごったがえしていた。空席を見つけようとうろうろする老人、食事を不機嫌な顔で待つ老人、ぽつねんとすわり涙の滲んだ眼を人々に向けている老女もいた。