宗教ってなんだろう。宗教と政治って・・・「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子) を読むとますますわからなくなる

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こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

最近のニュースを見ていて思う。宗教ってなんだろう。人間は弱い存在だから宗教なしにはいられないのだろうか。また宗教は純粋に宗教としてだけ存在すべきだ。こういう意見をきく。果たして、それは可能なのだろうか。

信仰を持つことで恐怖を克服

奈良平安時代の貴族たちは死の恐怖から、阿弥陀如来像の手から五色の糸を垂らしてもらい、それをにぎって極楽浄土に行くことを夢見た。

また人々は飢餓、疫病、貧困、家族を失う悲しみ、そういった苦しみから逃れるために宗教にすがった。宗教は、そういう人々に手を差しのべてきたのだ。
とりわけ、同じ宗教を信じる人々の結束は強い。

寄り添ってもらえる喜び

信じる仲閒ができれば孤独は消え去る。
そんな仲閒が、宗教の力で世の中を良くしようと考えるのも、自然な成り行きである。

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コルシア書店の仲間たち

たとえば、須賀敦子さんの「コルシア書店の仲間たち」。
これは、理想の共同体を夢見る人々による小さな書店、コルシア書店についてのエッセイだ。この書店は、もともと教会の物置だったところにつくられた。

そこに頻繁に出入りしているのがカトリックの神父さん(書店の経営も行う)。
そして、活動家や左派系のインテリたちのたむろする場所なのに、パトロンの1人は巨大企業の大株主でもあるブルジョアの老婦人、という不思議さ。

エピソードとして、彼女が店にやってくると、だれかがイスを持ち出してきて座らせ、言われた本をたちまち店の奥から探し出してくる。
また、握手する際には、掌を下向きにして優雅に差し出す。それは、彼女たち上流の女性が手に接吻を受けることに慣れているからだ。

ここでは、左派系の活動家も、思想家も、貴族も、ブルジョアも、司祭たちも、みんな混じり合い混沌としている。それが、長い歴史をもち国同士が競い合ってきたヨーロッパというものの姿なのだろうか。

イタリアでは戦後の一時期、宗教関係者によるデモや政治活動が盛んに行われていたという。宗教、学問、政治が一緒くたになっているのは、イタリアやヨーロッパに限らない。

日本でも飛鳥や奈良の時代、外国の文化をさかんに取り入れたのは僧たちで、学問僧も、活動家の学生と見まごうような僧も、西行や兼好法師などの芸術・文化人僧たちも存在した。僧のすそ野は広いのだ。

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そんな中でこの宗教がよい、この宗教は悪い、とはなかなか言えない。また公的な人々が、完全に宗教と関わりを断つことも可能かどうかはわからない。

たとえばNHK大河では、源頼朝はいつも小さな観音像を手許において大事にしている。妻や子に強制する様子もなく、あくまで個人のつつましい信仰心なのだ。こんな姿が日本人の信仰の原点であり、それが理想といえば理想なのかもしれない。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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