午後のサンルーム(5)
ある日、恵子たちのグループが食堂から出ようとすると、先に食事を終えた佐々木シズ子がドア横のイスにすわっていた。その姿がずいぶん小さく見えた。
下を向き、手を膝の上にのせて何かをもみしだくようにしている。手の間にあるのはなんだろうか。ああ、いつも彼女が首のまわりにまいている黄緑色のスカーフだ。
自分が何をしているのかも知らぬげに、佐々木シズ子の手は無意識のうちに、ぐちゃぐちゃとスカーフをもみつづけている。そのスカーフといえば、まるでここにいる老女たちの肌のように薄汚れている。
恵子たちを目にするとシズ子は立ち上がった。そして数歩、こちらに近づいてきた。黒い小さな目は、じっと菊江の顔に注がれていた。
ちょっと笑ったようだったが、よくわからない。
だいたい普段から笑うような女じゃないから、笑い顔を知らないのだ。いつも夫の、あの吝嗇な男の後ろで、陰気なしなびた顔をしているだけだったから。
恵子は、近づいていくのが怖かった。回りは騒々しいのに、ここだけがしーんと静かだった。そして自分たちだけがどこかへ一直線に押し流されていくようなのだ。めまいがしてきた。シズ子の目は相変わらず菊江に注がれている。
何か話したが、声は彼女の体の中に、吸い込まれてしまうようにか細く不明瞭だ。菊江は困ったようにグループの者たちのほうに振り向き、肩をすくめた。
それから顔を背け、そのままシズ子の方は一度も見ずにドアのほうに向かった。ほかの者たちも急いでそのあとを追った。
後ろからきた者が、シズ子の肩に手をかけた。
「ねえ、一緒に・・・・・・」
なだめるように肩をたたき、腕を取ろうとしたが、シズ子は手を振り払いその場にしゃがみ込んでしまった。体を硬くし、肩を震わせ、もう二度と動かないように見えた。
その数日後のことである。
もう夜半過ぎにもなる時分、恵子は廊下の先にある自販機にミネラルウォーターを買いに出た。
戻ろうとするとき、階段の下のほうでふと妙な声を聴いた。降りていくと、こんな時間なのにドアが開け放しになり、中から煌々と明かりのもれている部屋がある。磯野夫婦の部屋だった。
部屋の前にだれか立っている。近づいていくと、その小柄な体がシズ子だとわかった。その前に菊江が、うつむいて立っている。
シズ子が何かを手渡そうとし、菊江は激しく首を振って拒絶している。
「あたしの好意が受け取れないっていうの」
シズ子の声が聞こえた。菊江は困ったように首をふりつづけている。
「そうやって、また、あのときみたいに聞こえないふりして」
そういうと、シズ子いきなり大声で泣きはじめた。
ようやく、声を聞きつけて住人たちが集まってきた。そして、驚いたようにひそひそ話しながら、好奇心いっぱいの顔で遠巻きにしてながめている。
ふいに、シズ子の体がぐらぐらと前後に揺れ、ぺたんと尻餅をつくようにつくように後ろにおれてしまった。そのまま動かない。口の両端から白い泡が吹き出している。
「てんかんだ」
だれかがいった。見ていた人々は、ようやくすべきことに気がついた。
「だれかー」「だれかはやく」「看護師を呼んで」という声が続いて起こった。
やがて宿直の看護師や、ケアルームの者たちが走ってきて、そのままシズ子を担架に乗せケアルームに運んでいってしまった。
菊江は人々が去ったあともぼんやりした顔で立ちつくしている。
恵子に気がついて話しかけようとしたが、手に持っているものに気がついて、あ、といった。手の中に黄緑色の薄汚れたスカーフを握りしめている。
「それ、佐々木さんのスカーフ」
「そうよ」
困った顔でいった。
「明日、ケアルームに返しにいくわ。あんなに断ったのに」
そういうことのあったのが、もう半年も前のことである。