昔のことですが、なぜあんな悲劇が・・・と思うことも多い。なぜわたしたちは、もっと寛容に、ゆるく協力し合うことができないのでしょう?
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

昔のことですが、なぜあんな悲劇が・・・と思うことも多い。なぜわたしたちは、もっと寛容に、ゆるく協力し合うことができないのでしょう?
わたしが20代半ばで結婚し、その少し後、夫の実家に泊まった時のことだ。
義母や、夫の姉たちが、
「かなめさんがね」
「そう、かなめさんは・・・」
と、ある人のことを気軽に話している
親戚か、知り合いのだれかだろう、と思っていたら、
「桜田門外の変」での水戸藩の志士のひとりだった。
かなめさんって・・・?
「どんな人なの」
夫に聞いたら、義母の実家の方でもともと神官をしていた人らしい。しかも志士の中では、最年長だったという。
なぜ、志士の仲間に加わったのだろう。
桜田門外の変は3月3日、大雪の降った日に起こった。激しい斬り合いで雪の上が赤く染まったという。
今のわたしたちの暢気な話と、
その朝の惨劇の情景がまったく合わないのが衝撃だ。
少し話はそれるが桜田門外の変から、天狗党の乱、そして藩内の抗争とつづく中で、水戸藩は徐々に力を弱めていった、水戸学をかかげ、幕末の志士の聖地だった面影はもうどこにもなくなった。
国内のことより、二派に分かれて藩内で、激しい抗争をくりひろげたのが原因だった。
そして、こういうことは、普段あまり口にしないが、
先日、自民党の有村治子参議院議員が、ご先祖は、
「桜田門外の変の志士の一人でした」
と、話されていた。しかも、20人ほどの中でただ一人の薩摩藩士、ほかの方はみな水戸藩の人たちだ。
それを見て、
「ああ、こんな風に話してもいいのか」
と思った。もうすでに150年も前のことだから・・・。
こんな面影の人だったかも
わたしは血が繋がっていないが、夫や子どもたちはその末裔だ。
うちの夫は極めて静かなひとだが、内心どう思っているのだろう。
数年前、義母が亡くなった際、義母の年の離れた従兄弟と帰りの電車で一緒になった。端正な顔立ちの静かな、夫に面差しのよく似た人で(夫の顔がいいといってるわけではありません(__;))、ひょっとして、鯉淵要人(かなめ)さんも、こんな風なひとだったのかな、と思う。
実は書きたかったのは、そういうことではないのです。
幕末の人々の行動や、ことの成り行きに不思議でならないことがある。
犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩は、違いを乗り越えて薩長連盟をつくり、明治維新を実現させた。そしてその後も、日本を発展させる大きな原動力になった。
けれど、違う道を歩まざるをえない人々もいた。なぜだろう。
強い信念を持つことは素晴らしい。けれど、信念によって結束を強めることが、却って力をそいでしまうこともある。そして、それによって悲劇も起こる。
ある程度の寛容さをもち協力し合うことで、いざというとき、ほんとうの力を発揮できるのではないでしょうか・・・?
こんな考えも、歳のせいかもしれませんが。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。