狂歌の仲間は当時の文学サロンの雰囲気だったのでしょうか。蔦重もたじたじとなる幕府御家人 大田南畝(桐谷健太さん)の変人(__;)っぷり!
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

大田南畝(桐谷健太さん)が登場しましたね。
どんなキャラクターの人かと思ったら、やはりこれまでの作家や絵師に負けず劣らず個性的(__;)な人でした。
南畝の書いた「菊寿草」で、高く評価された蔦重はお礼を言いに、須原屋(里見浩太朗さん)と共に南畝の家を訪ねていきます。
そして、やはり変な人だった(__;)南畝。
「せんべいを1人で食べられる」とごきげんでした。
それにしても、江戸時代にこんな楽しいことがあったのですね。狂歌なんて、一部の人のみが作るのだろうと思ってました。南畝から狂歌の会に招待された蔦重。
さて、会に出てみると、元木網(もとのもくあみ)さんはじめ狂歌の会は変人(笑)ぞろい。といってもやはり一番変だったのが南畝でした。

いきなり「うなぎに寄する恋」のお題が
狂歌というのは、5 7 5 7 7の和歌の体裁を保った上でおかしみのあるものを詠むという結構至難の業で、いきなり振られた蔦重が四苦八苦してましたね。
なお、南畝はそれまで詠みっぱなしだった狂歌を集め、「千載和歌集」ならぬ「万載狂歌集」をつくり、これが狂歌ブームにさらに火をつけることになりました。
また狂歌の会では、おもしろい歌を詠むだけでなく、たがいの交流の場、文学サロン的な側面も持っていて、それを感じた蔦重も蔦唐丸と号してサロンのメンバーになり積極的に関わっていきます。吉原でもしばしば会が開かれ「吉原連」というのもつくられたようです。

南畝との交流が始まったのは32歳ころ。
ここから作家や絵師との交流を広げていったことで、蔦重はメディア王としてさらに成功していきます。ひととひととのおつきあい、本当に大事です。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
10月12日(土)、「第41回若葉台秋まつり~大花火大会~」。今年から秋の開催になりました 「倍売れる細見を作ってまいります!」と蔦重。そのためには、いいものを半値でつくる。さらに花の井から伝説の瀬川名を襲名するという助けも 「おさらばえ」が美しく悲しかった。瀬川の身請け話は江戸中の人の興味を集めましたが、鳥山検校追放後の彼女の運命についても皆さん、気になって気になって仕方なかったようです 新型コロナウイルス対応の、個人向け入院保険があるそうです。コロナ禍以来、社会のいろいろなことが変わりました 鎌倉殿の13人、実朝公の才能をのばした母政子/大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
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