あらためて見てみると、純粋すぎる愛っていうのはつくづく怖いものなのだなと。「死の棘 (とげ)」(島尾敏雄) 源氏物語の「六条御息所」は愛が深すぎて生き霊になったけれど。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
「死の棘(とげ)」(島尾敏雄)
だいぶ前に読んでいて、最近白内障で見えにくく再読してないので少し違うところがあるかもしれません。
「私」は作家。戦時中、島で知り合った女性と恋愛し結婚する。
子も生まれ幸せな結婚生活と思ったが、ある日妻が私の「情事」を知る。
それ以来、激しく責めつづける妻。
「妻もぼくも三晩も眠っていない」
そして妻は。
「あんたは十一月には家を出て、十二月には自殺する」と予告する。妻は夫を憎んでいるのではない。愛が純粋で激しすぎるのだ。
それから夢かうつつか分からない生活がはじまる。
穏やかになるかと思うと、また激しい怒りの発作に取り憑かれる妻。ゆるしを請う夫。
実は、こんなことが長い長編小説のはぼ最後まで続いていくという、あきれるほどの執拗な愛と狂気の物語なのだ。けれど、けれどだ、この妻ほどに、夫を愛した女性がいただろうか。
純粋すぎる愛の怖さ
だいたい純粋な愛などというものは、存在しない。
打算とはいわないが、無意識のうちに人はどこかで自分に釣り合う相手を選択し、恋愛し、結婚する。
それが穏やかな家庭生活を送るための知恵なのかも知れない。だから、長い結婚生活の間にはいろいろあっても目をつぶったり、人生ってこんなもの、と流して生きていく。
けれど、そうではなく、純粋に愛を貫き続ける人がいる。それは、現実には不可能だから、彼ら二人は一生、苦しい愛の十字架を背負って生きていかねばならないのだ。
純粋な愛の中の罪と罰と狂気と陶酔とがえんえんとつづく小説、それが「死の棘(とげ)」だ。
家庭は破壊され、二人のこどもたちは昼間も雨戸を閉めて怒鳴り合う狂気の両親の周りで、心に空洞をつくっていく。
狂乱の末、妻はどこへ
子育て中に読んだので、私は子どものところが一番つらかった。子どもが可哀想だ、と泣けた。
だから、人はゆめゆめ愛という名の狂気に捕われてはならない。人として、まっとうな市民生活を送り、少々のことには目をつぶり、幸せな家庭で子を育てるべきだ。
というのは、建前である。
どうしたって純粋な愛を貫き通したい人がいる。それはそれで貴重なことだろう。
平安時代の大作『源氏物語』の六条御息所は愛が深すぎて生き霊になってしまったけれど・・・。
さぞつらかったことだろう。情けなかっただろう。
題名は新約聖書のなかのことば「死の棘は罪なり」から。
変な感想になってしまい申しわけありません。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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