悪口の多い家族を注意できないのはなぜ?
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

妻が悪口をいって困る、という訴えを見て、「これはどういうことだろう」と不思議に思った。
「悪口をいうのをやめてくれ」
では、なぜいけないのか。少しして気づいた。この相談者は、人に注意というものができない優しすぎる人なのだろうか。

どうも我慢するのが美徳、と思う風潮が今もって私たちの社会にはある。だから取りあえず自分が我慢すれば・・・と思ってしまう。
私の母もよく連れ合い(つまり私の父)に怒っていたな。
人が良すぎる、家のことをしない、出世が遅い! 笑 等々・・・
母が怒り出すと、当分終わらないのを知っているので、父はそのまま言うに任せていた。
母は根本的に人がよく、一本気なのを知っていたので。
それに何か言えば、それが次の怒りへの呼び水になってしまう。
人はだいたい、何か言われてやめることはない。
回答者の小川仁志さん(哲学者)がおっしゃるように、「もっと根源的な理由が存在している」のだろう。
私が思うに、言い損なのに 怒りの言葉が次々と湧き出るのは、本当はなにか別の感情、
哀しみ、苦しみ、劣等感、不安・・・
などを、怒りにして表現しているのではないでしょうか。
相談者の妻は、本当は、心に寄り添ってほしいだけなのかもしれない。
また、すごい言い方になるが、一緒に悪口をいってほしいだけなのかもしれない。悪口をいってる妻は言えば言うほど妻ひとりが悪人になり、夫はいつまでもいい人だ。だから余計につらくなって、さらに怒りが沸騰する。
本当は寄り添ってあげるだけで、怒りがスーッと静まる場合もあるだろう。
または、じっくり話を聞くのも良いし、でなければそれが無理なら放っておく。つらいけれど・・・そして、少し静まったときに、昔の話をしたり、寄り添うことで妻の気持ちも変わるかも知れない。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
自分で、自分の悩みに答えを出すのが良いし、

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一方向からだけ見るのは危ない。生き方にしても、中東情勢にしても。一つの意見だけを聞いてああそうなんだわかった、それが全て正しい、と思い込むのは洗脳されているのと同じです。





