ツグミ団地の人々〈二人の散歩10〉

「あら、里子ちゃん、めずらしい」
澄子が素っ頓狂な声をあげた。妻が下の名で呼ぶのは、だいたいが隆史と同級かそれに近いような者に対してだ。
「あの娘は、幼稚園の時から知ってるのよ」
と、言うのがいつものことであった。
「今日はオシゴトはお休みなの?」
澄子は甘ったるい声で訊いたが、まるで小さな子供に対して話しているようだった。

 里子は一度結婚して団地を出たけれど、間もなく小さな女の子を連れてもどってきた。たしか数年前にその娘は亡くなったと聞いている。
 どうやら離婚したようだった。澄子は、離縁された、と大時代なことばを使っていたが。

 一街区にある部屋に母親と三人で住んでいる。永年美容師をしているが、自分で店を開くほどの甲斐性はない。身体全体からいかにも疲れたような雰囲気を出している。
「疲れたからちょっと休憩してるのよ」
 すっかり落ち着いて、旨そうにコーヒーをすすっている。

「お店はだいじょうぶなの」

 なんでも忘れるのにその実、心配性の澄子が横から訊いた。

「いいの、いいの。お客さんあまりこないのよ」

 澄ましてコーヒーの残りをすすっている。

  外は風が強いが、部屋の中は暖かくみんな何かとはなれがち店の前を段ボールや何やらが滑るように通りすぎていった。
 その時澄子が店のドアの向こうを指さし、あっと、叫んだ。
「ほら、あそこに人影が」
 

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