饗宴のあとで家康に謝る明智光秀は潔くはじめて(すみません)光秀を素敵だなと思いました。家康の本心は・・・?本能寺どうなるのでしょうか
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
16日の「どうする家康」は、家康(松本潤さん)が信長(岡田准一)の安土城を訪ねます。この前の「富士山見物」などへのお礼ということです。家康にとっても「駿河一国加増のお礼」の意味もあったようです。
そして家臣を引き連れて安土城まで行きました。その際に大勢のお伴を連れずに、30人ほどの家臣のみを連れていったそうです。
「自分はあなたを討つつもりはありませんよ」という意味でもあります。
ご存じのように信長という人はたいへん猜疑心が強く、家臣に何かあった際には容赦しませんでした。そういうことで一切疑いを持たれないようにしたのですね。
30人ほどの家臣とは言っても、坂井忠次、石川数正、本田忠勝、榊原康政、井伊直政などの精鋭を連れて行ったのです。
この辺りから大変緊迫していきますね。
安土城での、ハラハラするような饗宴が始まりました。
宴は明智光秀によって取り仕切られました。また宴は数日にわたってつづきました。信長は、上機嫌で城の隅々まで案内したということです。得意絶頂の信長です。
そんな中、家康が「淀の鯉が臭う」と言いだし、饗宴は一気に緊迫した雰囲気になります。さらには信長が光秀を打ちのめすという修羅場に。
その後光秀は家康のもとに謝罪に訪れます。そして、
「上様は、私を決して許さないでしょう」
という言葉を残して去っていきます。このときの光秀カッコよかったですね。今回初めて(すみません)素敵だと思いました。光秀役の酒向芳さん、屈辱の饗応シーンお疲れさまでした。
いっぽうその頃秀吉は、備中高松城を攻めあぐね、水攻めを始める少し前のころです。そして秀吉から信長に、是非派兵してほしいとの要請が再三再四来ていました。
「 行ってやらねばなるまい」
自信満々の信長はそう考え、まず高松城を落とし、さらに西の方への出陣も考えていたようです。まさしく全国平定も間もなく、のところでした。
そういうこともあり信長は家康への接待が終わったら、直ちに京の本能寺へ入り、そこから一気に四国や九州を平定しようと考えていた節があります。
家康も、信長と共に派兵しよとしましたが、それには、およばない、それよりも、
「京や堺見物をしてきたらどうか」
と勧めっられたのです。
光秀の背後に家康・・・?
そして家康は、安土から京に向けて出発したのです。今回の「どうする家康」を見ていますと、家康は討つ気満々といったところですが、一方明智光秀は深い絶望のうちにあって、ひょっとして次回は家康が討とうとする前に、明智光秀が先を越して無念をはらそうとしたとも考えられます。
「本能寺の変」の後、家康は明智軍に攻撃されるのを恐れて一気に伊賀越えに向かいます。
その際に、多くの家臣や兵はいなかったものの、同行していたのは、ご存じのように選りすぐりの精鋭たち。
また伊賀者の助けがあるなど、さまざまな幸運が重なったことを考えると、やはり家康はもともと明智光秀の攻撃を知っていたか、手をにぎっていたか、もしくは「どうする家康」のように自身で討とうとしていたか、そのいずれかかもしれませんね。
次回の「どうする家康」ほんとうにどう出るのか楽しみです。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。