明智光秀もその子女たちも、品良く美形で王侯貴族のようだった。娘の細川ガラシャを通じてその血筋は幕末の孝明天皇にも

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「日本史を暴く」(磯田道史、中央公論新社)

磯田道史「日本史を暴く」を読んでみました。
この中で特に興味を持って読んだのは、どうする家康で、本能寺の変の近いことから明智光秀についてのところです。

まずなぜ明智光秀があれほど信長に重用されたのかということ。
ルイス・フロイスの「日本史」には、光秀の子らは「非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだった」と書かれているそうです。

実際、肖像画を見ても、光秀はお公家さんのように品がよく美形ですね。
その上大変な切れ者だったため信長からも信頼されたようです。その光秀がなぜ信長を討つことになったかです。


かの有名な細川ガラシャ夫人(玉さん)は光秀の三女で、絶世の美女と言われたそうです。父が父なら娘もまた美しかったのですね。この方は望まれて細川忠興と結婚します。信長のすすめもあり、細川家では喜んでお嫁さんにしたのです

その関係で、「肥後細川家には『明智情報』が多く残った」そうです。「ある時から、光秀と信長の間に隙間風が吹き始め」たとのこと。

18畳の大広間にプライドを傷つけられた信長

ある日、信長は光秀の邸を訪れます。そこに18畳の大広間があるのを見て、プライドを傷つけられ食事もしないで帰ったそうです。『(信長様は)全体、自分より人が勝っていることは嫌いだ』から。
また、そのことで光秀の忠誠心に疑問をもったのではないかと磯田氏。

あるいは、四国の長宗我部氏への対応で光秀が怒ったとも言われます。またあるとき、光秀が信長に足蹴にされた、それが理由とも言われます。二人の信頼関係が崩れるのはいつなのか。次の「どうする家康」でもそこが注目されますね。


役者さんですが、外観的には「麒麟がくる」の長谷川博己さんのイメージが近いと思います。今の「どうする家康」では結構、底意地が悪い感じなのですが、いつかそのイメージは覆されるのでしょうか。

明智光秀。画像はウィキペディアからお借りしました。

細川ガラシャを通じその血筋は孝明天皇にも

絶世の美女、玉さんに、細川忠興はぞっこんだったとか。それで後ほど、明智光秀が本能寺の変で信長を討った後どういう立場に立つか大変困ったそうです。

離縁することもできず、一時幽閉して監視状態だったとか。数年後、細川忠興が家康について戦地に赴いていたとき、石田三成が蜂起し屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしました。けれどガラシャはそれを拒絶し、すでにクリスチャンになっていたので自害ではなく、家臣に介錯を頼んで自ら死を選んだそうです。

謀反人となった明智光秀は三日天下でなくなりますが、実は光秀の血は細川ガラシャを通じて、さまざまな人に受け継がれました。有名人も多いそうです。

幕末の孝明天皇にもその血が入ってて、元首相の細川護熙さんには父方でなく母方の血筋だとか。

ここでも、父が亡くなったあと、娘がその血筋を後の世につないでいくのですね。明智光秀は、ご自分の子孫を草葉の陰からご覧になっていてどう思っていらっしゃるのでしょうか。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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