桐壺更衣のモデルになったのは、あのお方では・・・と思っていたのですが違うらしい。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
紫式部の邸あととされる廬山寺。
この写真は秋のものですが、数日前から桔梗の花が咲き始めたそうです。品のよい紫の花におおわれたお庭さぞ素敵でしょうね。
ぜひ見てみたいものです。
ところで紫色部日記では、有名な「秋のけはひ」のところで藤原道長邸のお庭のようすも描写されています。
秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし・・・
ちょうど彰子中宮が出産で里帰りしていときのことです。
道長はマメな男性で、お庭や池のことなど、早朝からあれこれと指図していたようですね。
そして彰子中宮にも重い重圧がかかる中、ついに若宮誕生となります。土御門殿は喜びに包まれます。
紫式部日記絵巻断簡(東京国立博物館蔵)
父道長の喜びはたとえようもありませんでした。
やがて邸ではじめられたのが手分けして源氏物語を書き写すことでした。立派に装丁された源氏物語の写本とともに彰子は宮中へもどります。
そしてこの写本は、一条帝に捧げられました。
一条帝は、源氏物語を朗読してもらって聞きながら、感心して、この作者は日本紀を読んでいるのではないかと女房に語ったとされます。
日本の古い歴史書ですが、その中に実際にあったことを紫式部が参考にしたのではないかと、一条帝は考えたのです。
特に注目されたのは、仁明(にんみょう)天皇に寵愛された女御 藤原澤子でした。
仁明天皇は、女御 藤原澤子を寵愛し若宮も誕生するのですが、やはりまわりからの嫉妬やそねみに苦しみ若くして亡くなりました。病気で里に下がるやいなや亡くなったところもそっくりだそうです。
お子さまですが、光源氏と同じように臣下になります。ところがその数十年後、この方は55歳で即位して光孝(こうこう)天皇となられます。光孝天皇は3年間だけの在位でしたが容姿も優れ、たいへん心の広い聡明な方だったそうです。
源氏物語のなかの桐壺帝と桐壺更衣との悲しい純愛物語、そしてお子さまが臣下に下ったことなどどこか似ていませんか。
母の女御が桐壺更衣のモデルではないかと考える方は多いようです。
どうなんでしょうね。実は私は、一条帝との深い愛や、若くして亡くなられたことなどからずっと、定子中宮がモデルではないかと思っていたのです。
あれだけの深い愛の物語があったのですから。
定子中宮の素晴らしさと、はかない命を思うと心が痛みます。
同時に、それを痛いほど感じつつ、一条帝のそばで自分の道をしっかり歩みつづけた彰子中宮にも感動してしまいます。
紫式部も、そんな彰子中宮をはらはらしながら見つめ、なんとかこの方をお守りしなければ・・・と思っていたのでしょうか。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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