鶴ヶ峰~白根~中山~二子の渡しへ通じる鎌倉街道中道(なかつみち)/畠山重忠公もこの道を通ったのか
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
大河「鎌倉殿の13人」をご覧になってますか。歴史小説好きの私は、前回の「青天を衝け」に引き続き、毎回必ず観ています。
登場人物の中にひときは爽やかで、凜々しい武将がいます。
この方、畠山重忠公。中川大志さんが務めています。
鎌倉街道中道(なかつみち)を馬で行き来
私の住む横浜若葉台は旭区にあり、区内の白根町付近に鎌倉街道中道(なかつみち)が走っていました。
鎌倉街道中道は、鶴ヶ峰→白根を通って中山~二子の渡しへと通じます。
重忠公もまたこの道を通ったのでしょうか? 鶴ヶ峰や万騎が原付近には重忠公ゆかりの史跡が数多く残されています。
畠山重忠公は1164年、武蔵国(埼玉県深谷市)生まれ。武術、知力、人格などすべてに秀で、鎌倉武士の範ともされた武将です。はじめは平家方についていましたが(三浦義村と対決した際には、あえて戦を避けようとした)、のちに頼朝の陣に入りました。
武術はもちろんですが音楽的な才にも恵まれ、静御前が義経をしのび鶴岡八幡宮で舞を舞ったときには、銅拍子を打って伴奏したとされます。
また頼朝公の鎌倉入りの際には初陣を務めました。この顛末はドラマの中でも語られ、このとき、
「なぜ、自分ではないのだ!」と、上総 広常(佐藤浩市さん)が憤慨していたのも記憶に新しいところです。
さらに、義経とともに平氏追討の任に当たり、有名な「ひよどり越え」では、馬を哀れに思い、険しい山道を馬を背負って駆けおりたとされる逸話の持ち主でもあります。
銅像をご覧ください。勇ましいですね。
重忠公は、頼朝に深く信頼されていましたが、頼朝亡きあと、権力争いに巻き込まれ鎌倉に向かう途中で北条軍との戦になり討ち死にしたとされます。
その終焉の地が鶴ヶ峰(横浜市旭区)付近とされ、 旭区役所近くには畠山重忠公碑や首塚などの史跡が数多く残されています。
また北条氏が数万騎の陣を張ったとされる万騎が原には、重忠公烈碑も建てられていますので、ぜひ一度、史跡を巡ってみてはいかがでしょう。
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楽しいね!遺跡を巡ってみると、自分が歴史のただ中にいるようで、ぞくぞくしますね☺️