「千と千尋の神隠し」は、おとなの愚かさと、人の欲望の醜さを教えてくれる/10年前の三鷹の森ジブリ美術館で
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
今夜は、「千と千尋の神隠し」を観てましたが、いろいろ考えさせられることが多いですね。
お父さんとお母さんが、ごちそうをガツガツ食べて、そして豚になってしまうところ。なぜ二人はこんなに知らないところのものを食べるのでしょうか。
二人は大人でいることに慣れすぎていて無防備、そしてちょっと疲れているのかもしれません・・。そして実は大人でいることにもあきあきしている。だから豚になったのか・・(^_^;)
恐れを知らない、というより感受性や、ものを知覚する力をすでに失ってしまっている。
そして、橋の横にひっそりと佇む顔なし。このお話のテーマにもなるキャラクターですね。この顔なしの顔(^_^;)の表情が凄いですね。能面みたいに同じ顔なのに、場面場面で、気弱に見えたり、凶暴に見えたり、穏やかに見えたり。
そして金をあたえることで人を思い通りにできる旨味を知り、それをエスカレートさせ人の欲望をむき出しにさせる。自分もまた果てしなく凶暴化していく。
けれど金を差し出された千は首を横にふり
「いらない」
といって、顔なしを失望させる。
やがて力を失い、しょんぼりと千について銭婆婆の家にいく。つつましく電車の座席にすわる顔なし。
そして銭婆婆の家ではテーブルに向かい、静かにティーカップを口に運ぶ姿が印象的。人は自我を暴走させてはダメ。止めどもないところまでいってしまうという教訓でしょうかね。
宮崎駿は人の欲には限りがないことを教えてくれる。この場面、何回見てもちょっと感動してしまいます。
同じばあばとしては・・・
また私も同じおばばとして(笑)、湯婆婆の行動がなにかと気になります。ガミガミとこわい湯婆婆ですが千がクサレガミのような客人を身を挺してもてなす姿を見て、
「みんな千を見習いな!」
などといいます。ホメてのばす。意外にも有能な経営者なのかもしれませんね(笑)
けれど坊にたいする教育だけは間違ってます!(^_^;)
甘すぎて心配性のあまり子供を閉じ込め、完全にダメにしている。わが子だけがかわいい! 結局のところ子供をスポイルしてしまうのに・・(汗) 私も自分の子育て時代を思い出し反省しきりです。
「いや、凄くこわかった!」・・・と、成長したわが子たちは時折つぶやきますが(^_^;)
わがままだった坊ですが千と旅をしてきたあとは見違えるように成長。
湯婆婆に対抗し千を元の世界に帰してあげようとします。
よかった、よかった。
子供は本来たくましく、自分で成長する力をもっている。
また何より千尋自身が、湯屋で懸命に働き、ハクを助けようとがんばることで見違えるほど成長します。
少女の力が親たちを人間にもどす
そして、ついにお父さんお母さんを人間に戻すことができます。
それなのに相変わらずのお父さんお母さん。
彼らは何も知らないのです。大人の世界の住人として、千尋にいばって接している。
それでも、千尋はめげません。
この「神隠し」の中で体験したことを糧に、これからも強くまっすぐ生きていくことでしょう。
何も知らない子供と思っている私たち。本当は無知なのは私たち大人なのかもしれません。大人ができることといったら、せいぜい伸びようとする子供を邪魔しないことぐらいでしょうか。
ジブリ作品は少女が主人公だと本当に生き生きしてきますね。
私は「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「千と千尋の神隠し」が特に好きなのですが、どの主人公の少女も勇気があって正義感が強くまっすぐです。
女の子の成長物語としても最高の作品なのかもしれません。
写真は10年ほど前に「三鷹の森ジブリ美術館」で撮影したもの。
「迷子になろうよ。いっしょに」の言葉どおり・・ぜひ大人の世界をしばし忘れ、ジブリの森の中で迷子になりたいものですね♥
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。
ほかにも日々の思いを書いていますので、読んでいただけたら幸いです。
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