千日劇場の辺り ―奇妙な案内人〈9〉

「ここで何をなさってるんですか」
制服の女性はいった。「話してただけですよ」
正木さんは割にはっきりした口調でいった

「困ります。勝手にいろんな解説をされては」
「別に解説ってほどじゃないですよ。僕の感想をいってただけです」

 ああ、またさっきのやり取りが始まるのね。美佐江が好奇心半分で見ていると、しばらく何かいい合ったあと、制服の若い女は妙に納得したように何度か頷いた。さらに、正木さんの顔を見上げて笑いかけさえしている。
 ああ、あなたまで陥落させられちゃったのね。美佐江は爆笑しそうになりながら、出口のほうに向かった。

 それにしてもほんとに変な人だ。そもそも私が正木さんの何を知っていたというのだろう。職業も正確な年齢もわからない。ただ、千日劇場に周りで、しょっちゅう出会う男性の一人に過ぎない。そして駆け出しのピアニストである娘の売り込みをしている。そんな娘に弱い父親の一人に過ぎない・・・はずだった。
 それでは飽き足らず、美術館でうんちくを披露することに、ささやかな喜びを見いだしているとでもいうのだろうか。
 

 正木さんのどこか人間離れした明るさや朗々とした声を思い出していると、エレベーターが上昇してきて扉が開いた。 中に入って、階ボタンを押そうとすると、慌てて乗り込んできた男がいた。正木さんだった。美佐江は気づかれないように、背中を向けている。
1階についてドアが開き、外に出たときに、あ、と正木さんはいった。

「偶然ですねえ、こんなところでお会いするとは」

「あら、驚いた」
仕方なく美佐江はそのまま相手の顔を見ていった。
「正木さん何してるんですか。こんなところで」
もう全部見て知ってるのに、美佐江はわざとらしくいった。
「清水さんじゃないですか」
 相手の男の顔に何か疑うような表情が浮かんだ。
「見てましたか」
 その声を聞いて美佐江はゾクッとした。低い弱々しいトーンの声なのに。
 美佐江はあいまいにうなずいた。
「ひょっとして、ずっと?」「いえ、それほどでも」

「ああ、やっぱり、あなただったんですね。さっきは、こちらをちらちら見てる人がいて、どうも気になってたんですよ」
 美佐江はドキリとする。
「ずいぶん、お茶碗のことに詳しいんですね」
「いや、それほどでもないですよ」
 正木さんは少々ツンとした様子でいう。
「お茶の先生なんですか」
「まさか、ご冗談を。僕がそんな風に見えますか」
 首を横に向けると、先程の案内嬢たちが、不審そうにこちらを見ている。
 そのままビルの外に出た。幅のある道路を突風が吹きすぎていった。大型書店の看板の前を埃が舞う。その角を少し行って左に曲がった先に千日劇場がある。

美佐江は腕時計を見た。「大変開演二十分前です」
「じゃあ、あなたは、急いで劇場に戻らなきゃ」
「そうします」
「またいつかお会いしましょう」
「はい、正木さんも、お気を付けて」
 走りかけて振り向くと、半分白髪の正木さんが笑うような泣いているような顔でこちらを見ていた。



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