玉木屋の娘 3
多江は、十二年前に、ひかされて木版元の玉木屋の女房になった。当時、このあたりばかりでなく、結構有名な話で、なんでもそれで若旦那は身上をつぶすほどの金を使い、版元としての力は弱まり、今ではすごい羽振りとなっている蔦十――蔦谷十兵衛に、すっかり差をつけられてしまったのだという。
家が傾いたのはそれだけが理由ではない。多江は知っている。あの人の、仕事のへの熱が冷めたのだ。以前、吉原の店に来ていたころの清吉は、いつも元気で生き生きしていた。「仕事が、おもしろくて仕方ない」と目を輝かせながら話していたのだ。
遊女、染田遊の横にどさりと座り込むと、「今度、出す黄表紙は、ちょっとや、ちょっとのおもしろさじゃないんだ。ぞくっと、身震いするどの趣向があって、最後に必ず、と叫ぶ。ああ、おもしろかった、生きてて良かった、といってもらえるような本を出したいんだ」 たしかに滑稽本、黄表紙などの版元としては、その話のおもしろさで、玉木の右に出る者はいない。
けれど黄表紙の類より、もっと、商売になるのは役者絵や美人画だ。これなら男にも女にも、大奥のお女中からいい歳をしたご隠居にも人気がある。蔦屋が羽振りがいいのは喜多川歌麿などの人気の絵師見いだして次々と新しい趣向の絵を描かせていることだ。
清吉には、そちらの運がなかったのだ。清吉自身がもともと絵師で、何人かの絵師の元で働いていたが、その世界にはよい絵師が何人もいて、早くから自分の才能に見切りをつけてしまった。
そして、見よう見まねで彫りのまねごとをしているうちに、もともと器用な男だったので、あちこちの工房で便利に使われるようになり、腕を磨いた。仕事もいくらでもあった。江戸の人々は娯楽を求めていたからだ。
芝居小屋に芝居見物に行った商人のお内儀連中は、美男の役者にのぼせ上がり、芝居がはねたあとなどもしばしば楽屋の出待ちをする者も珍しくなかった。
それを風紀がどうのと、お上が問題にし、しばらくの間、出待ち禁止の令がおりていた。
「う、う。そんな・・・。もう生きてるかいもないよ。隅田川に飛び込んでやろうかしら」などと言い出す娘もいるくらいだった。
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