ツグミ団地の人々〈二人の散歩 1〉
戦前は銀行のホールだったという、円柱の柱の並ぶサロン風の展示室。ビル自体は数年前、高層のものに建て替えられたのだけれど、中にすっぽりはまり込むような形で旧財閥系の美術館が残されていた。
展示室の奧はうす暗く、茶碗などの入ったガラスケースのところどころにやわらかな光が当たっている。 見学客は中年以上の女性グループが圧倒的に多い。みんな茶でもやっている人なのか熱心に見ている。
そんな中に一人男性の見学者がいて何か話しているのに気がついた。中年過ぎの見かけは貧相な男で、回りを女たちが取り囲んでいる。好奇心にかられそばに近づいていった。
「この茶碗はだね……」
男がとうとうと話している。由来を話すその顔には何かに裏打ちされたような自信がほの見えている。皆一言も聞きもらすまいとするかのように男の口許を見つめ、うなずいたりため息をついたりしている。
話は専門的で微に入り細にわたっていておもしろい。それに博学で骨董の知識も深く一つひとつが人の生のような流転の末ここにあるのだとよくわかる。茶碗の個性が際だって、胸に迫ってくる。それに骨董が好きでたまらないという様子は、見ていて微笑ましい。美味珍味を前にしたときのように表情や声、しぐさにほとんど官能的なものがあった。男がほかのケースに移動すると女たちもぞろぞろとあとをついていった。しばらくして、暗い物陰から紺色の背広を着た職員のような男が近づいてくるのが見えた。
「失礼ですが、何をしてらっしゃるんですか」
「説明してただけですよ」
「困るんです。館内でそんなことをされては……うちの美術館でやってることと勘違いされますから」「そうですか……。知ってることを話してただけなんですけど……」
口をつぐみ目を茶碗のほうに落とした。何か言うのかと固唾をのんで様子を見守っていた女たちもあきらめ、やがて心残り気な様子で男から離れていった。
通路に出ると、さっきの職員たちが隅でひそひそと話していた。
「また来たよ。困ったもんだ」
「でも、茶碗の知識は当たってるのよね」
次の展示室では、入り口近くの壁面に能面が飾られていた。
中央に鼻曲がり中将の面があった。中心からずれた鼻をした歪んだ美男の面である。また老人のようでもあった。美男なのに早くも老成し人生に疲れ切っているのだ。
少し離れて若い女の面があった。どきりとした。女の顔がそのまま置かれているように一瞬見えたからだ。瑞々しいくらいの美貌だ。口もとに淡い笑みを浮かべている。色艶が表情の隅々にまで漲って春の花のようだ。そのとき唇の横に何かの跡が血痕のように付着しているのに気が付いた。
プレートの解説では、作者の孫次郎は少し前に亡くなった妻の顔を思い出しながらその面を彫ったのだという。ということは、死んだ時の面差しそのままなのだろう。どこか気味が悪かった。何百年ものときを経て今やまがまがしい気配さえ漂わせている。
「これ良いでしょう」
首筋に息があたり、振り向くとさっきの男がこちらを見て笑った。そのまま二、三歩後ろに下がると、男はたちまち数人の女たちに取り囲まれてしまった。
背後からブレザーを着た女の職員が近づいてきた。ああ、またさっきのやり取りが始まるのか。好奇心半分で見ていると、しばらく何か言い合ったあと、若い女は何度か頷き、男を見上げて笑いかけさえしている。
ああ、あんたまで陥落させられちまったのかい。彼は爆笑しそうになりながら、出口のほうに向かった。
男のどこか人間離れした明るさや朗々とした声を思い出していると、エレベーターは一階につき、そのままビルの外に出た。歩道の上を突風が吹きすぎていき書店の看板の前に埃が舞っていた。