「行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」これが真実すぎてこわい。
ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
大河「鎌倉殿の13人」でおなじみの、平安末期から鎌倉時代にかけての坂東。
すさまじいばかりの力による争い、はかりごと、誅殺の連続である。17日の放送では、上総介の誅殺場面のショックからまだ立ち直れていない。
ひょっとして戦国時代以上の暗黒の時代だったのかとも思える。一方、京ではどうだったのだろう。
行く河のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(鴨長明『方丈記』より
これは、「枕草子」「徒然草」と並んで日本三大随筆のひとつといわれる鴨長明の「方丈記」。最初のところはだいたい古典の授業で暗記させられるので覚えているが、続きはなかなか出てこない。しかもどういう人なのかもよく知らないまま。
若いかたの文章を読んでいたら、「元祖ミニマリスト」と書いてあって、まあ、そうもいえなくもないな、と思った。
生年は1155年。父親が下鴨神社の正禰宜(しょうねぎ)という格式ある家に生まれた超お坊ちゃまだったという。けれど若くして父が亡くなり、あと継ぎの地位を叔父に奪われて長明は父方の祖母の家で暮らすことになった。
これが第一の挫折。
たった5メートル四方の庵に住む
1180年、長明25歳の頃に伊豆の石橋山で頼朝が挙兵、そして木曽義仲による平家打倒と義経による義仲討伐、壇ノ浦での平家の滅亡などが、怒濤のように連続して起こる。
そして1192年に鎌倉幕府が成立。またその年には、平家滅亡を図って頼朝に挙兵をうながした後白河法皇が崩御された。時代が大きく変わったのだ。
余談だが、こわいと思える法皇にも、巷で流行る歌を好み一冊の本にまとめるなど庶民的な一面もあった。「遊びをせんとや生まれけん・・・」などが残っているのも法皇のお陰かもしれない。
ところで長明は、その間も一向にさえない生活を送る。
その後、後鳥羽院の和歌所の寄人になるなどの晴れがましいこともあった。さらに後鳥羽院は、長明を新しい神職に任命しようとし、長明も胸をふくらませたが、またも叔父の反対にあい挫折。
長明は、すっかり世をはかなみ、方丈庵というい小な庵をつくって、そこでひっそりと暮らし始めた。
方丈とは、5メートル×5メートルほどのこと。約5、5畳ほどの小さな庵で、書物と折りたたみ式の琴や琵琶以外ほとんど何もない生活を始めた。確かに「元祖ミニマリスト」といえるかもしれない。けれどもまあこの時代なので、夜になれば真っ暗闇のなか一人暮らすのは、さぞ寂しかったことだろう。
三代将軍実朝にすげなくされ
1211年には鎌倉に向かい三代将軍 源実朝と面会。けれど実朝は素っ気ない対応だったという。実朝もすぐれた歌人だったというから、鴨長明を召し抱えてもよかったのにそうはしなかった。今で言う芸風が合わなかったのか。和歌に対する考え方の違いがあったのだろうか。
地震で地面が割れ水が噴き出す
当時、天地異変も次々と起こった。地面が割れ、海の水が襲ってくる大地震もあった。そして多くの人が亡くなった。ますます無常観を強くした長明は、「方丈記」を記した。鴨川の水を見て育った長明は幼い頃から川の流れに人の世の無常を見ていたのかもしれない。
方丈記が成ったのは1212年。その翌年、鎌倉では和田義盛の乱が起き、鎌倉大地震まで発生している。
1216年に長明没。3年後の1月に、鎌倉の鶴岡八幡宮で実朝が公暁に誅殺された。
長明の生きた時代はまさしく、平家の没落~鎌倉幕府の成立~鎌倉武士たちの激しい抗争による潰し合いの起こった時代だった。
その時代に生きた長明は不幸だったかもしれない。
けれど3年にも及ぶコロナ禍での都市封鎖や緊急事態宣言、さらには、ロシアによるウクライナ侵攻を見ている私たちの時代だって、後世の人から見れば、「なんてひどい時代!」と思うかもしれない。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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