午後のサンルーム(3)
その日の午後、恵子と菊江の姿は、食堂横のサンルームにあった。
色の褪めた葡萄色の長いすが広い窓に沿って置かれ、二人の老女は並んで座っている。広い中庭がよく見える。庭では今ユキヤナギが満開だ。風になぶられて大きく揺れ、緑色の陰をつけてチラチラと光を反射していた。
春の花は毎年同じようなものなのに、花を前にした自分たちを、翌年も同じものとしては想像できない。そういう年齢なのだった。
菊江はお茶の免状をもっている。今日はお茶を教える日らしく和服姿だった。
――この人はいつも少しだけ、だらしなく着付けている、と恵子は思う。紬なんかでも衿前が少し開くのである。
「あたし、もうとっくに、自分が死んでる気がするわ」ふと菊江がつぶやいた。
「あなた、今朝、トースト三枚も召し上がったでしょう。死んでたら、そんなに食べられないはずよ」
「トースト三枚ですって。何をいうの。そんな覚えはない」
「ふふ。そうね、いつも二枚ですものね」
「ちがうわよ、パンなんて食べてないっていってるの。あたしは、ご飯とみそ汁を食べたのよ」
「わかったわ」
恵子はため息をついた。(あたしのジャムまでほしがって、パンにぬりつけたクセに)。
ここでは、いつもそうだ。ほんとに忘れてしまったのか、それとも、わざとなのか・・・・・・まあ、考えても仕方がないけれど。
「とにかく年寄りは、尊敬されなくちゃね」と菊江が強調する。
「でもここじゃ、みんな年寄りだから。年を取ったのに気がつかない。あたしは、しわが増えたけど、お隣のなんとかさんだってそうだから」
「それ、あたしのこと?」
菊江がムキになっていう。友人をからかうのはちょっとした退屈しのぎのようなものだ。
窓のすぐ下に、よく手入れされた花壇があり、およそ百種類ほどのバラが多種多様の花を開き始めている。
白、黄色、ピンク、花弁の輪郭を紅色に染めたもの。それらを咲かせるのにどれほどの手間がかかるのか、恵子には見当もつかない。
花陰に老人の白髪頭がちらちらと見える。桜庭老人だ。早々と昼食をすませ、もう花壇の中にしゃがみ込んでいる。時々ふと立ち上がり、背の高いやせた体で植物たちの間を回り、気遣わしげな目を向ける。
それは人間の形をした一本の老木のようであった。彼の顔には、植物によって守られた生命の静けさと威厳があった。じょうろを持つ彼の手は、大きな木が枝を差し伸ばしているようだった。
植物を見つめるときの真剣なまなざしで、人間を見ることがあるのだろうか。眼鏡の奥の目にバラの色彩が映るとき、彼の喜びがどれほどのものなのかだれにも見当がつかなかった。
晴れていれば一日のほとんどを花壇の中で過ごす。妻はなく、人つき合いもほとんどない。
「なぜ1人にだけ、花壇を使わせるのか」文句をいった者がいる。
若い男の事務員が困った顔でそのままを桜庭に伝えた。桜庭は横を向いて軽くうなずき、納得したように見えたのに、翌朝も早くから彼の姿は花壇の中にあった。まるで何も耳に入らなかったかのようである。
「困った爺さんだ」。事務員がこぼしているのを、通りすがりに耳にした者がいる。
「頑固が一番なのよ」恵子がいった。
「いいひとなんてなんにもならないわ。わがままで頑固だって思えば、まわりが我慢するもの」
「いつも、だれかが遠慮してるのよね。それも決まった人が。ここも一緒よ。ああ、いやだ、いやだ。同じお金を払って入居したのにね。偉そうな人もいれば、人の顔色ばかりうかがってる人もいる」
菊江は自分を、そちら側だと考えてるのだろうか。そうは思ったが、口には出さなかった。
そして一瞬、佐々木シズ江のおどおどした顔が浮かんで消えた。