話せばわかる、いや、話してもわからない。純粋な子供の心にならなければ。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
恐れというのは、いつでも心の中に降りてきて、その人のやろうとすることを押しとどめるものだ。
なぜそんなことを思うのかというと、昨日ある会の準備会に出席したのである。そこで、自己紹介みたいに、一人ずつ5、6分話すコーナーがあった。
こんなとき舞い上がってしまうのは、私のいつもの癖だ(^_^;)
そして、自慢話のような、いや、自分について知ってほしいという気持ちから、「わかば通信」を10年発行してきました、とか、地域で「まちコン」を始めました、
などということを、滔々と話したのである。
そして、そのあとで、
「始めたたきは、大変だった! 怖かった」
などと余計なことまでいった。果たしてこれは、同情してもらいたいのか、
愚痴をいってるのか・・・。
過ぎたことで、今さらながら恥の上塗りをしてしまった。残念な気分が残る。
高齢になって、やっていけないことは、
愚痴と自慢と昔がたり
自戒の意味で再びここに記しておく。
そして、今日書きたかったことは、
養老孟司「バカの壁」の帯文から、
〈「話せばわかる」なんて大うそ!〉
今朝の読売新聞の書評に鵜飼哲夫さんが書いていた。
話せばわかる、というが、
養老先生によれば、人は「自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断」
する習性があるのだそう。
ロシアのウクライナ侵攻があった今、よけいに身に染みる。
きっと数々の話し合いがあったと思うのだが、なんの解決にもならなかった。
だから、話しても無駄なのだろうか。
いや、きっと、
少しは理解し合えるはずだ・・・それを、それを信じたい。
子供のように純粋な心になって。
ばあさんになって恥の上塗りばかりしている私がいうのも変だが・・・。
最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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