ツグミ団地の人々〈苦い水14〉

 水戸の御城下の下を流れる那珂川は、このあたりを悠々として流れたあと、数キロ先の那珂湊でさらに広がって海に吸収されている。

 城内の侍や天狗の者たちが入り交じり骨肉相争う戦をしたのは、この那珂湊だ。多くの人間が死んだ。満ち潮になると背中を浮かべた死体が、川をプカプカと上ってきた。川は血の臭いがしたそうだ。
 ひい爺さんはその後、大勢の人間たちに混じってザワザワと、本州のちょうど真ん中を川が流れるように二百数十里を移動して、京に向かった。動き出した水の流れは留めようがない。

 冬のさなかに敦賀でとらえられたときにも、大勢の者たちが上の者に従った。お侍がたも農民であるひい爺さんも、脚には一尺二寸の生木の足枷をつけられ、窓を木で打ち付けた暗い鯡蔵に押し込まれた。中央に排泄用の桶が置かれ、一日に握り飯二個とぬるま湯だけがあたえられた。

  死罪三百五十三人、その中には御歳六十歳の大将田村稲之衛門さまも、筑波で天狗を挙兵させた、藤田小四郎さまも入っていた。
 ひい爺さんらはかごに乗せられ、来たときとはまったく逆のコースをたどって故郷へ帰された。運ばれているうち、何人もの人間がかごの中で息を引き取った。

 やっとたどり着いたものの、今度は御城下での牢暮らしが待っていた。
 数カ月後にやっと放免になり、這うようにして故郷の村に戻ってきた。長い牢生活で、脚はなえ、久慈川のそばまで来ると、両側から体を支えられながら土手堤を登り、満々とした川の水を見て、ひい爺さんはぽろぽろと涙を流したそうである。

 ひい爺さんは一年余り家の中でぼーっとしていたが、やがて正気を取り戻し、それからは平々凡々な一人の農民に戻った。「天狗」の話は、妻にも子供たちにも一度もしなかった。近在の人間が何か一言でもそれに触れると、急にだんまりになり家に入ってしまったそうである。

 ひょこひょこと片脚をうまく使って、実に器用に水を張った田圃の中を横に移動して、稲の苗を植えたそうである。だいたい私の一族は、器用な人間が多い。けれど器用貧乏というのか出世するような者のはいなかった。

 それから家の女たちは、夫が「天狗」のように出ていってしまうのではないかと怖れていた。出ていかない連れ合いを、内心不思議に思っていた。

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