ツグミ団地の人々〈二人の散歩12〉

二人は散歩の帰りで疲れていたので、ぼーっと座って温かい紅茶を飲んでいた。
 里子が、ふいに二人の方を見ていった。
「隆史君は元気ですか」
 彼がなんといおうか迷っているうちに、澄子が横を向いていった。
「お陰さまで」

「えっと、たしか金融関係でしたよね」
「ええ、まあ」
澄子が唇を舐めながら言う。
そんなときの妻の顔が彼は嫌いだ。

「隆史君は中学の時、すごく成績が良かったから」
「そう?」と妻が愛想良く笑う。
 二人の会話を聞きながら彼は思っている。「おまえは、バカだな」
「隆史君、女子に人気があったんですよ」妻が満更でもなさそうに唇の間からフーッとため息を漏らした。
「馬鹿な、まさか本当にそう思ってるんじゃないだろうな」
 
 
 そのとき、彼は妻の口を押さえて閉じさせてやりたいと思った。
 切れ長の目がちょっと恨みがましそうにこちらを見て、微かに笑うかもしれない。
 ああ、孫次郎の女の面だ。口の横には血痕のような微かな汚れ。
 そのとき、彼の頭の中に、ひょっとして孫次郎は妻を自分の手にかけて殺したのではないかという考えが浮かぶ。もちろんとんでもない考えだ、だれもそんなことを思いやしない。
 そして次に頭に浮かぶのは鼻曲がり中将の面である。なぜあの面は美男なのに鼻がゆがんでいるのだろう。気難しいのだろう。そもそもなぜあのふたつの面が並んでいるのだろう。
 

 すでに孫次郎の女面は、孫次郎から心が離れ、鼻曲がり中将に心を移してしまった。それも仕方がない話ではないか。ああして、未来永劫のように並んで人目にさらされているのだから。
 女は人もいなくなった展示場で涙を流しているかも知れないぞ。それをなぐさめてやらなければいけない。

 彼はいつしか鼻曲がり中将になって呟いていた。「泣かなくても大丈夫だ。俺がいるじゃないか」
「あ・・・・・・、あなた何かいった・・・・・・?」
 妻がふいにこちらを向いて不思議そうにいった。

 もちろん、孫次郎の面のように美しくもなければ若くもない。そして当然、唇の横に血痕が付いているわけでもない。

            


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