「最期は家で」を選択する人が増えてきたワケ。看取る人にも、看取られる側にも覚悟の必要なつらい選択ではありますが・・・。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。
10年後のスタンダード
「家で死ぬ」を選択する人が増えてきたワケ
できたら避けたい話題。けれど一度は改まった気持ちで、自分や家族の最期をイメージしておくと、その後の人生を見直すいい機会になるかもしれません。
その瞬間をどこにするか。本当は人にとってとても大事なことですね。
ひと昔前、日本人のほとんどは、
最期を自宅で迎えていた
半世紀以上前、ほとんどの人は自宅で亡くなっていました。1951年当時、日本人の実に80㌫以上の人が自宅で死を迎え、病院での死は約10㌫にすぎませんでした。
住み慣れた自宅で、子や孫に見守られながら息を引き取る。これは人にとって人生を締めくくる、理想の形かもしれません。
ちなみにその頃は赤ちゃんも、産婆さんによって自宅で生まれていました。
このように人の生き死にを家の中で体験するのは、子供たちにとって、とても貴重なことでした。祖父母の最期をそばで見ることで、死の意味を理解したのです。
けれどその後は、徐々に病院で亡くなる人が増え始め、70年代にその数字は逆転します。
これには、安い費用で治療費が受けられる保険制度の充実や、高度な医療への安心感もあるでしょう。
2014年には70㌫もの人が
病院で亡くなっている
人は病院を清潔で高度医療を施す死に場所として選択したのです。病院こそが死の現場の最前線になりました。
これはどういうことでしょう。死は自分たちには関わり合いのないものとして、すべてを病院に委ねてしまうということでしょうか。
「医療機器につながれて死ぬのはイヤだ」
そんなささやかな声は、わがままと受け取られました。
「自宅で看取りますか、
それとも病院にしますか」
ところがここ数年、事情が少し変わりつつあるようです。
友人の父親が糖尿病になり入退院をくり返していましたが、あらゆる治療を施したあと、担当医師はこういいました。
「わたしたちにできることは、もう何もありません。自宅で最期を看取りますか、それともこのまま病院にしますか…」
その言葉を聞いたとき、友人は思わず固まってしまったそうです。
「苦しんだら、どうしたらいいの」
「気づかないうちに、死なせてしまったら…」
その責任の重さと、不安で押しつぶされそうになりました。
けれど今は在宅医療がかなり整い、退院後、医師や看護師、ケアマネージャー、 介護福祉士などがひんぱんに訪問し手厚い医療や介護を受けることができたそうです。
それにしても、最期まで看取るということは、看取り手にとってもつらいことですが、見取られる側にとってはそれ以上の苦痛、精神的な苦痛、それまで自分の背負っていたプライドから何もかも投げ出してしまうほどの苦痛を伴うものでしょう。
それを親と子とで、共通の体験として持つことによって死へと向かっていく、その凄まじさ。
「おとうさん、ありがとう!」
そんなさまざまな葛藤の中、最期は子や孫が寄り添い、手を握って呼びかける中、静かに息を引き取ったそうです。
いまでも家族でその時のことをよく話すそうです。最期に「ありがとう」と言えた、病院でなく家で看取れて本当に良かった、と知人はいいます。
きっと出産や婚礼と同じように、死もごく自然なことなのでしょう。死にゆくところを見せることで、残された者に生の価値を再認識させる。そんな意味合いも大きいようです。
本来家というのは生まれるところであり、死ぬところでもあったのでしょうね。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。