ツグミ団地の人々 〈小鳥が逃げた18 了〉

 あまりに寂しかったから、奈々の結婚式の日に自分は茂夫の幻覚を見たのだ。そう思って奈々にはもちろん誰にも話さなかった。

 夏になると、ツグミ団地には異様に蝉の鳴き声が響く。ジーンジーンと鳴いて、手すりやベランダの手すりやサッシや窓枠にへばりついて、最後の力を振り絞って網戸につかまっている。そしてある時、ぽとりと床に落ちる。
「切ないねえ」と美佐子は言った。
「えっ」と娘の奈々が言った。「どういう意味?」
「どういう意味って」
 奈々は結婚後、三か月で離婚してツグミ団地に戻ってきた。あっさりと、高校生の頃に学校から家に帰ってきたときのように、「ただ今」と言って。ただ、ガラガラと重いスーツケースを引いてきたところだけが違う。戻ってきて最初の夏をツグミ団地で迎えたのだ。

「だって、蝉は十何日かで死んでしまうんだろう。せっかくこの世に生まれてきたってさ、切ないじゃないか。あたしたち人間はどうなんだろうね」
「お母さん、何バカなこと言ってるの」
「あんたにも。可哀想なことをしたね、結婚式の時もちゃんと両親がそろっていたら・・・・・・」
「あの時、お父さん来てくれて、あたし嬉しかったよ。それなのに、三か月後に離婚するなんて、ほんとバカみたいだよね」
「あの時、お父さん、って何のこと?」
「えっ、結婚式の時、お父さん来て、照れくさそうに座ってたじゃない。ずっと。お色直しの時に話そうと思ってたら、コソコソと入り口の方に行ってしまって」

 美佐子はなぜかゾクゾクして、思わず声を荒げた。
「急にいなくなってしまったの? それまではいたの?」
「お母さん、ずっと横に座ってたじゃないの」
 奈々は詰問するような顔で美佐子を見つめた。どこか怯えたようでもあった。
「そう・・・・・・」
 言おうとして気が変わった。「そうだったわね」
 母親は黙った。するとますます蝉の音がジーン、ジーン、ジーンと大きく広がっていった。

 ちょうど結婚式の一週間後に茂夫が亡くなっていたことを知り、残った荷物を受け取りに行ったのだ。それを娘には話していなかった。部屋には全く何もなかった。よくこんなところに住んでいられるなと思うほど。
 そして部屋の隅にはあの鳥かごが置かれていた。
 空っぽの鳥かご。
 空っぽの部屋の隅に置かれていた鳥かごのことを、それからもよく美佐子は思い描いた。あの人はずっと逃げた小鳥を待っていたのだろうか。

「ねえ、お母さん」奈々の声で美佐子は我に返った。
「そのうち、何かで会ったら、お父さんにあたしが離婚したことを伝えておいてね。あたしからじゃ言いにくいから」

「わかった」母親はうなずいた。
 そしてそれから二度と、娘は父親のことを口にしなかった。また母親のほうでも娘に父親の話をしなかった。けれど美佐子は時々、晴れた日などベランダの向こうの青空に小鳥が飛んでいくような気がして胸騒ぎを覚えるのだった。
                          

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