人生というのは所詮、点と点をつなぐ〝間〟でしかない/「間抜けの構造」(ビートたけし)
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

だれしも健康に長生きしたいと願うだろう。けれども年老いて例えば、
管につながれて意識もなくベッドの上で、転がされるように生き続けること、そんな老後を望む人はいるだろうか。
もし意識があるとしたら、うつろな目を天井に向けて何を考えているだろう。なぜ私はこうしてここにいるのだろうか、そう問い続けているのだろうか。それとも、もういい加減息を引き取って、生命を終えたいとそう願っているかも知れない。
ところで、あまり関係ないのだが、最近、息子さまの本箱から借りてきて、ビートたけしさんの「間抜けの構造」という本を読んだ。これがめっぽうおもしろい。
ビートたけしさんによれば、間抜けな人に共通するのは、「自分がどういう状況にいるのか客観的に見ることができない」ことだという。
そして、お笑いをやる人にとって、また映画にとっても間がいかに重要か、言い尽くせないくらい語ってくれていて、目からウロコの気持ちで読んでいた。
そして一番衝撃だったのが、ラストあたりの、
「我々の人生というのは、生きて死ぬまでの〝間〟でしかない」というところ。
生まれた点があって、死ぬ点がある。
「人生はその間のことに過ぎない」
これを読んだとき、むしろ爽快な気持ちになった。まあ、人生はそういうものかもしれない。
だったらその点と点の間を懸命に生きてみればいいんじゃないか。
ベッドの上に転がされても生き続けたいと願おうが、さっさとあの世に行きたいと願おうが、所詮、点と点の間をつなぐだけのこと。ただその価値を自分では決められないのだ。
なぜ生まれてきたかも分らないのに、人生の意味などわかるはずもない。
人智を超えたところにあるのでしょう。
そんな〝間〟の先に何かあるのかも、と思う人が、子どもをもって、命をつないでいこうと考えるのかもしれませんね。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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