午後のサンルーム(9) 最終回

 その朝、恵子は朝方早い時刻に目を覚ました。
 汗をかいている。部屋の中は静かで、障子を通して入ってくる弱い光が箪笥の上の人形を青く浮き上がらせている。今日は曇りなのかもしれない。
 時計を見ようと寝返りすると、隣に夫の姿がない。ベッドの上は、平らで冷え冷えしている。手洗いにでも立ったのだろうか。いくら待っていても戻ってくる様子はない。

 起き上がろうとしたときに一瞬目眩がした。
 茶の間を見ても夫はいない。時計を見ると五時になるところだった。部屋の隅に寄せてあったリュックサックと釣り竿が消えている。ああ、釣りに行ったのだと思った。
 
 こんなに早い時間に、自分に声もかけずに出たことで、なぜか夫をうらむような気持ちになった。恵子は湯を沸かし、茶をいれてのんだ。それからガラス戸を開けて外を見ると、今にも雨の降りそうな空模様だ。
 着替えをし、肌寒かったので襟元にスカーフがほしいと思った。

 箪笥の引き出しの隅に紙筒に包まれたスカーフがある。その中に菊江に渡された佐々木シズ子のスカーフ、かなり汚れたスカーフが返せないままに置かれている。見たくなかったが、なぜか、捨てるのはもちろん、押し入れの奥にしまってしまう気にもなれず、ただ袋に入れて、そこに置いておいたのだ。

 それを開いてみる気持ちになった。袋から出すと、見知らぬ女の持ち物のように思えた。洗面所に行って、タブにぬるめの湯をみたし、スカーフを入れた。
 それは湯の中で広がり、タブが若草色に染まっていくようだった。手の中にまとめようとすると、ぬるりと逃げてしまうのだった。軽く押すと茶色の汚れが出た。絵の具を染みこませてでもおいたように、汚れはいくらでも出るのだった。
 二、三度すすぎ、かわいたタオルで水気を取ると、本来の明るい清々した若草色になった。
 部屋の中に干したあと、――ああ、佐々木さんのスカーフだ、恵子はしみじみと思った。

 その日は時間がたつのが遅かった。食事の時もお茶を飲んでいるときも女たちのおしゃべりが耳障りで、磯野はいつもより余計にくだらない冗談をいうように思えた。夕方になっても夫は戻らず、恵子は迎えに出るつもりもなく外に出た。かわいたスカーフを首に巻いていた。

 庭にはまだ幾本ものバラが残っていた。
 そして、それぞれの花が甘い匂いを発散させていた。桜庭老人が咲き終えたバラの枝を剪定している。その手つきは確かでやさしく、バラに話しかけているようだった。形の整った派の上に大輪の白バラが溶け出しそうに花びらを広げている。
 その隣でワイン色の花が添え木にもたれかかっていた。その周囲に、赤やピンクのミニバラが、勢いよくたくさんの花をつけていた。

 
 恵子のほうをみて桜庭が、おや、という顔をした。その目が恵子の襟元に向けられている。
 何か訊きたそうだった。
「変ですか、これ」
「わすれな草です」
 桜庭は断定するようにいった。スカーフの柄のことだとわかった。
「わすれな草なんですね」恵子はくり返した。
「それをして、よく早朝散歩してました」
 佐々木シズ子か、菊江か、きこうとしてやめた。もう、どちらでもいいような気がした。
「明け方目がさめて、花の間にいると、海岸の方から歩いてくるんです。そして、ここで少し花を見ていった」
 桜庭がそんなに長く話すのを聞くのは初めてだった。
 
 恵子は桜庭とわかれ、バス通りの方へ歩いて行った。途中で夫に会うかもしれない。振り向くと、桜庭の体はまたバラに向かっていた。あの人はいつ、食事をするのだろう。
 道が悪く、恵子は何度も転びそうになった。

                      了

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