千日劇場の辺り〈1〉
根本 幸江
「ちょっとこちらへ来ていただけませんか」
軒下に立っていた女が近づいてきて、どこか押しつけがましい様子でいった。
「もう時間が迫ってるんですよ」
眉間に寄せた深いしわが、深刻な事態なのを表している。
「すみませんね。最近贅肉が付いてきて、どうにも速い動作が苦手なんです」
美佐子はのろのろと体を動かして仕方なく立ち上がる。上には、外出用にどうにか格好をつけるために一張羅の上着を着て、ああ、そうだったと、顔に白粉を塗りたくり、頭には昨年亡くなった母の形見のカチューシャをする。
女は、ことさら大きなため息をついて、「じゃあ、行きましょう」といって、壁から頭を離す。
「どこに行くんですか」
「決まってるじゃないですか」女は無言で美佐子の顔をしげしげと見つめる。
「あんなにあなたのことを頼りにして、一日も早く来てくれるのを待っていたのに、そんなすげないことをいうんですか。あの人はたった一人、寂しく死んでいったんですよ」
はて、そんなにわたしを頼りにしてくれる人がいたかしら。美佐子はしばし立ち止まって考える。どうにも見当がつかない。
女はそんな美佐子の背中を叩き、耳元で叫ぶ。
「山根和子さんが早くあなたに会いたがってるんですよ。なぜすぐに行かないんですか。一刻も早く行ってあげてください」
女はまるで悲鳴のように声をはり上げる。
そのあまりのうるささに、耳を押さえながら目を覚ました。
けれど目を覚ましてみれば、あたりは静まりかえっている。
しばらくして洗面所で鏡を見ながら、あれはだれだったのかしら、と考える。
こんな風にいろいろな夢や記憶が交錯するようになったのはここ数か月のことだ。まるで走馬灯のようにいろいろな記憶が後先もなく巡ってくるが、肝心の昨日のことやさっきのことは思い出せない。
「それ、痴呆症の前触れだよ」
夫が新聞の横から顔をのぞかせ、ことさらむずかしい顔で言う。
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