玉木屋の女房〈8〉
「ああ、版木かい。それなら、山桜の一枚板のいいのがあるよ。木目が細かくて、彫りやすい。あんたのとこの作治さんのように、丁寧な仕事をなさる職人さんにも、きっと気にいってもらえるに違いねえ」
「よかった。蔦重、いえ、蔦屋の旦那さん、ほんとうにありがとうございます」
「やはり、山桜が一番だよ。近頃の職人は、彫れりゃあ、なんでもいいってのが多いが、そんな手合いには、うちの彫りは頼めねえ。その点、あんたんとこの作治さんなら、安心して頼めるってもんだ」
多江は嬉しさで顔を赤らめていった。
「旦那さん・・・・・・」
「おっと、多江さん、旦那さんってのは、なしだ。蔦重でいいよ。お父つぁんに連れられてきてた頃は、いつも、蔦重、蔦重って呼野び捨てにしてました」
「そうでしたか。すみませんでした」
その時傍らにいた父の困った顔さえ浮かんでくるようだった。
「そういえば、あんたが言ってた男だけどさ、あんたのおとつぁんが、最初にここに連れてきたんだよ。やけに絵のうまい子がいるって。何、ほんとは役者なんだけどね。あんたも芝居小屋で見たことがあるんじゃねえか」
蔦重は意味ありげに笑う。
「ああ、それで、どこかで会った気がするんですね」
「いい男だろう!」そう言って多江の顔をのぞきこんだ。
「いえ、別に・・・・・・・」
「女は、みんな、あの男に惚れるんだ。女だけじゃねえ、男もな。谷町からも引っ張りだこで。けど、あいつは、そんなものに興味ない。役者だって、本気でやってるんじゃねえ。いつだって、何をやってたって、あいつは、上の空なのさ。あいつが興味を持つのは、絵を描くことだけだ。しかも描く絵と言ったら、どれもこれも目を剥いた大首絵ばかり」
蔦重は、横目で多江の顔を見ながら意味ありげに笑う。
「お多江ちゃんは、あんな男、好きになっちゃいけないよ」
「好きだなんて」
「ほ、ほ、ほ。顔に書いてあるよ。女の人はね、みんなあの男を好きになるのさ。何しろ、役者で優男だからね」
多江は自然に頬が赤くなる。
「ほら、切られ与三郎なんかやらせたらうまいのさ。うますぎて、多分ホンモノよりホンモノ過ぎるくらいなのさ」
「本当みたいだったら、いい役者さんなんでしょ」
「ところが、そうとも言えない。いい役者ってわかるかい」
「さあ」
多江は首を傾げる。
「作って、作り込んでそうなってるならわかる。だけどね、あの男は、すぐに役の中に入り込んで、役の中の人になってしまうのさ。つまり、舞台の上に、ホンモノの人殺しが存在してしまうのさ」
蔦重のおじさんの言うことは、難しすぎてどうもよくわからない。ほ、ほ、ほ、と蔦重はまた女のように笑う。
「だけどね、あの男の描く大首絵は天下一品さ」
役の上の性格だけじゃなくて、役者の人間としての姿も描き出しちまうのさ」
「……」
「怖いだろう。役者にとってあんなイヤな絵描きはいないんだ。自分の隠してる本性まで、白日のもとに露わにされちまうんだからな」
「ふーーん、そうなの」
「だから、役者仲間に嫌われちまって、気の毒に、本職の役者としても干されちまってる」
「だからあんな暗い顔をしてるのね」
多江はため息をついた。「気の毒に」
「気の毒?」
蔦重はまた、ははは、と笑った。
「いや、あんな顔でいるのが、あの男にとって一番幸せなのさ。あんな顔で不満や不幸せを体の中に充満させて、小野人生への不足感から、あんな怪物みたいな顔の絵を生み出すのさ」
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