あなたはどっち派? 「夕べの雲」の庄野潤三と、「死の棘」の島尾敏雄

2022.5.22 読売新聞朝刊

こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

新聞を広げてびっくりした。
島尾敏雄と庄野潤三、このお二人の大作家の顔が並んでいたのである。
「どっち派?」という特集記事で、どちらの作家の作品に読者の支持が集まるかというものだった。二人は九州帝国大学の先輩後輩なのだという。

島尾敏雄の「死の棘」、 庄野潤三の「夕べの雲」、お二人の代表作は対照的だ。結果として、投書で圧倒的に支持が多かったのが「夕べの雲」のほう。ほーう、と思い、次に、まあ、そうだろうな、と思った。

おまえがえらそうに何をいうか、とお思いだろうが、実は、私は両作品とも大好きなのです。

詩情豊かに家族を描いた「夕べの雲」

夕べの雲 (庄野潤三 講談社文芸文庫)

「夕べの雲」が、丘の上に住む一家を描いた作品で、家族の日常が淡々と描かれている。特になにが起こるわけでもないのに情景のひとつひとつが美しく心に残る。
家族愛というのとはちょっとちがうかな。いや、理想家族とはこうでなければならぬ、とやや強迫観念めいたものも感じてしまう印象深い作品だ。考えようによってはこわい作品なのかも。

初期の作品で、家庭内のことを書いた。それを読んだ妻が大変ショックを受けてしまった。それ以来、庄野潤三は家族を傷つける作品は絶対に書くまいと、決心したとのこと。その結果としての作品が、「静物」であり「夕べの雲」なのだ。

それにしても、生きた家族を描くのに「静物」、そして「夕べ・・・」とは。読んでいて、パレットナイフで塗りつけた絵の具が、絵からはみ出すような不安をふと感じることがある。

晩年のエッセイも人気だった。食事、来訪者、頂き物、妻のピアノレッスン、観劇、電車の中で食べたサンドイッチの旨さ・・・・・・そういうものが淡々と綴られている。

やさしかった妻が変貌「死の棘」

死の棘 (島尾敏雄 新潮文庫)

一方、島尾敏雄の「詩の棘」は、ある日、夫の裏切りを知った妻がひたすら夫を責めさいなむ小説だ。起きているときも、夜中に目が覚めてもいきなり、妻は夫を「おい」呼ばわりし激しく責めはじめる。

地獄の業火のような責め苦が続く。妻は夫を純粋に愛していた。純粋であればあるだけ、裏切られたショックは大きい。そして徐々に神経を病みはじめ、強迫観念のようになって苦しみながら夫を責め続ける。

まるで「私を救って!」と叫んでいるようである。「死の棘」は究極の夫婦の愛憎の物語。ほとんどの人がとてもついていけないだろう。こんなどろどろ世界を描いた小説、ほかにあるだろうか。読んでいて苦しい。

実はどちらも怖い小説だった

わが次男さんはこの小説を苦行と思って、いや修行と思って読み終えたそうだ。

確かに、延々と続く糾弾の描写には、思わず、参りしました!といってしまいそう。けれど崖っぷち夫婦を描いたこの小説の読後感は、意外と爽やかだ。たいへんピュアなものを読んだという気持ちよさ、爽快感さえ感じる。だから透明感、純粋さという点でいえば、こちらなのかもしれない。

題名は、聖書の中の「死の棘」かららしい。夫婦のエンドレスの苦しみはやがて昇華され精神の高みへと上ってゆく。
理想家族を描いたけれどきれいなうわずみの下にふと無機質性や、ある種のこわさを感じさせてしまう「夕べの雲」。それがこの小説の本当の価値なのだろうか。

「死の棘」もこわい、「夕べの雲」もこわい。すぐれた小説というのは結局、こわいものなのだろう。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

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