千日劇場の辺り ―千日劇場〈5〉
千日劇場は建てられてまだ間がない。しっとり濡れたエントランスの向こうで劇場の照明が小雨に反射して燦然とした光を放っている。四十五日間公演の今日は千秋楽である。人々はどこか興奮を抑えるような面持ちで次々と劇場の中へ吸いこまれていく。
初めて訪れたのは十年前になる。当時はまだ古い建物だった。死に神が、後に王妃となる少女をお愛してしまったことから始まるヨーロッパ宮廷の話で主役の女優が美しいので評判だった。
プロローグはのっぺりした面をかぶった死人たちが次々と闇の中に浮かび上がり、死神の裁きの証人になるという設定であった。狂言回しは王妃暗殺の張本人。狂っていたのは王妃なのか暗殺者なのか、世紀末の時代そのものだったのか。
美貌を維持するためにこのエキセントリックな王妃は毎日体操に精を出し、おつきを従えて一日に十何㌔も野山を歩きまわりウエストは両手でにぎれるほどしかなかったという。
劇場のエントランスが雨のせいで滲んだ青色に輝いている。入り口から人々が次々に建物の中に吸い込まれていく。内部か軽い光に満たされていてそこだけ別世界だ。
美佐江は立ち止まると、チケットを取り出すためにバッグの留め金を開けた。指先で中をさぐるがなかなか目当てのものに触らない。
麻子さんが不安げな様子で横に立ち、カサを美佐江の頭にさしかける。
「だいじょうぶ」
二人の若い女は顔を見合わせる。
「どうしたんですか」
「なんだか、ないみたいなの」
「さっき店の中で、バッグから出してるの見ましたよ」
「でも、ないのよ、どうしたのかしら」
「だいじょうぶ。見つかりますよ」
「そうよね」
バッグの底をのぞき込んで何度か手でまさぐった。二人の若い女性はぼんやりと暮れなずむ街のほうに目を向けている。
美佐江はごそごそと探しつづけている。
いらない書きつけや、残りわずかなパスネットのカード、レシートの類ばかりが指にふれる。そのときバッグの底に、雨粒のように鈍く光るものが目に入った。なんだろう。指でつかもうとした瞬間、あ、と声を上げそうになった。それは一個のパチンコ玉だった。なぜこんなものがここに……。バッグの口をあわてて閉じた。
雨の向こうから近づいてきた車のヘッドライトがゆらめきながら女たちの顔の上を通過していった。人の流れが急速に退いていくようだ。
劇場前に三人の姿だけが取り残されていた。頬や額に雨粒が落ちて、暗がりの中で二人の娘は幼い子どものように肩をすぼめてふるえている。
「待ってね。もうちょっと待ってね」
胃のあたりが石でも揉み込むようにきりきりと痛む。二人の娘は両脇から美佐江を囲んでいる。魔法のようにそれが現れるのをかたずをのんで見守っていた。
あ、あったわ。と美佐江がそれを指に挟んで取り出すと、二人は大きなため息をついた。
「良かったですね」
「急ぎましょう、開演前のベルが鳴ってたわ」
ふいに麻子さんが美佐江のほうに振り向いて言った。
「あれ、やっぱりやろうかしら」
「あれ・・・・・・・ほんとうに?」
くどくどと礼を言おうとすると、
「急がないと間に合わない」
もぎりの横をすり抜けて、二人の若い女はあっという間に劇場入り口から中に吸い込まれていった。
千日劇場 了