「自分の人生はなんて幸せだったんだろう」と思えるのは、そのひとが実際に幸運だったかどうかでなく、素質かもしれない
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

和田秀樹さんの「死ぬまでひとり暮らし」をときどき読み返しています。
「はじめに」の部分に、
「死ぬ間際『ああ、自分の人生なんて幸せだったのだろう。十分楽しむことができた』とあなたも思えるように生きてみたらいかがでしょうか」
と書かれています。
人生を幸せと思うのも、その人の能力かも知れない
これを読んで、自分もそんな風に生きてきたと思える人が何人いるでしょう。これまでの人生、後悔ばかりだ、と思う人もいそうな気がします。
自分はどうなんだと言えば、やはり、あれをやり残したとか、家族や身近な人々に対して常に親切でなかったとか、親孝行が十分できなかったと悔やむことは多いのです。
「両親は、こんな風に期待してたのかな」
と考えれば、その思いに十分こ答えなかった自分が情けなくなることもあります。
でもそれもみんなひっくるめて、
「自分の人生の中では、実にいろいろなことを経験できたな」とか、「やさしい人たちに囲まれて暮らせた」
と思えば、それもひとつの幸せの形かも知れません。
だから、和田さんのあの言葉は、
自分の人生の中に、それぞれの幸せを見つけなさい、とそういうことのような気がします。
「西条八十詩集」中の、田村俊子の死
「西条八十詩集」の中に、「千代紙」という詩があります。
大学生だった「ぼく」が人気作家の田村俊子に会いにいく。帰りに上野公園の葉桜の間を歩いていた。
道の途中で俊子は
「わたし、ちょっと千代紙を買うわ、つきあって」
といって、一間の小さなお店に入っていって「少女のように」千代紙を選んでいた。
俊子は背の高い麗人だった。
やがて愛人の鈴木悦とアメリカに渡り、戻ってくると「戦雲の上海で孤独な行路病者として」亡くなる。
西条八十の詩を読んでいると、これも人生なのだよ、と囁かれている気がする。
「年々歳々花相似たり、年々歳々人同じからず」
季節の移ろいの中に身をおいて、自然に人生を閉じられたらどんなにいいのだろう。今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。