父の日に向日葵の花やシャツをもらい無口な夫がいそいそと電話で礼をいう。離れていてもやはり家族だな、とつくづく思う

こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。 

DSC_1294

久世光彦の編集した日本の名随筆「家族」というのをときどき手に取って読んでいる。太宰治から群ようこ、そして久世さん自身の作品まで、家族についてのさまざまな思いや、忘れられない1シーンがつづられている。

あっけらかんと

群さんの『あっけらかんと、さようなら』では、家から父親の影が徐々に薄くなっていって、最後に家を出て行くときのシーンが描かれる。

「『ボクが買ったステレオ返してね』
と私にいった。
『いいよ、私アルバイトして自分で買うから』
・・・・・・・・
「じゃあねぇ」
私たちは、バイバイと玄関先で手を振って、あっけらかんと父親と別れたのであった。


ここではウエットな感情は心の奥にしまいこまれ、まるで儀式のように家族別れのシーンが描かれている。乾いているけれど、一歩間違えば修羅場になる。けれどそうはしない。淡々と描かれるだけに家族それぞれの傷は深いのだ。

真逆のウェットな父

また、真逆なのが、吉田絃二郎の「八月の星座」だ。

「わたしの故郷の父が、わたしの帰省をまちあぐんで、母や妹たちに隠れては、日に幾度となく停車場に出かけて行ったという話を思ひ出す」


この父親の姿を想像すると切ないものがある。


だれにでもひとつふたつ家族にまつわる、こんな思い出はあるだろう。私にもある。
数十年前、小さな駅で見送ってくれた、亡き父や母の姿は今も瞼の奥に浮かんでくる。

そして今では、子を待っているのは私たち夫婦の番だ。
父の日に、花や、シャツを贈られて口にはあまり出さないが喜ぶ夫。

私が電話して、途中で代わると、ふだんそういうことはあまり言わない夫が、「いつ来るんだ」と聞いていた。やはり会いたい気持ちがじりじりと募ってくるようだ。

家を出た子は、もうそれぞれの道で喜ばしいことなのだから、あまり寂しいとは考えないようにしている。
でも何かの記念の日に、こうして連絡し合えると、やはりしみじみと家族だなぁと思う。

母の日も父の日もこういうことのためにあるのだろうか。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。

by
関連記事