抜け道 (14)
弟が亡くなって半年も過ぎると、ようやく落ち着いた生活が戻ってきた。急に電話がかかってきて弟のことを聞かれたり、怪しげな男たちが塀の外をうろうろしていたり、知らない人間が突然訪れて証書を突きつけたりと、そんな心配をすることもなくなっていた。
車がすれちがうのがやっとの道の生け垣沿いに、妻はたくさんの鉢植えを並べていた。紫や赤や黄色、色も形もバラバラの名前の見当もつかないような花々が門の中と外にあふれかえっていた。
まるで子供を可愛がる手つきであった。大きなじょうろにたっぷりと水を注ぎ入れ、次々とかけて回った。花はその先端に水の雫を溜めて猛きほどに花弁をふくらませた。
素焼きや、釉薬のつやつやしたのや大小様々な鉢の前にしゃがみ込むと、土の部分に肥料をこんもりと盛り上げた。あ、と小さく声を上げると、細い指が、枯れた葉や花、虫などをせわしなく取り除いた。
スミチオン、オルトラン、サブロール、トップジン、デー、デー、ブイ、ピー・・・・・・たどたどしい妻の声が聞こえてくる。
彼が不思議に思って覗いてみると、縁側にいくつもの瓶を並べ一つ一つ手に取っては、ラベルを読み上げている。デー、デー、ブイ、ピーが、DDVPとわかったのは、少ししてからだった。一つを読み終えると、また次のを持ち上げて顔に近づける。
「それはなんだ」
妻は顔を上げ、微笑みながらいった。
「朝顔が枯れかけてるのよ」
「ふーん」
「葉先の色が、みんなうすくなってるわ」
そうしてから、さも困惑したという顔で、ため息をついた。
「ヤクザイを使わないと、とてもダメだわ」
「虫がついたのか」
「何かの病気かもしれない。だから、両方を混ぜてもることにする」
持ち手のついた大ぶりの容器に水道水を汲んでくると、目を細めてヤクザイの目盛りを見ながら、次々と容器に入れていった。それから庭に降り立って、液を朝顔の蔦の上からたっぷり注ぎかけた。彼が何気なく薬剤の一つを手に取ると、中身がだいぶ減っている。
「千倍液」と書いてあるのを読みながら、妻の薬剤を計る手つきを危なっかしい気持ちで思い浮かべた。妻は文字をじっくり追うことをしない人間だ。
翌日、液はさらに少なくなっていた。
「あれ、そんなに使う必要ないんじゃないか」彼はいった。
「ほどほどがいいんだよ」
妻は振り返りもしなかった。
数日後の出勤前の朝、彼は庭の隅で朝顔が、葉を茶色に変色させ、蔦を地べたに這わせているのを見た。
「これも、持っていっていいわ」
休日の朝彼は、妻が新聞の集金人に向かって、いっているのを聞いた。ひどく投げやりな口調だった。
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