「枕草子」は今の女性のような感性で書かれている。千年の時を超えて、布地の端切れが語りかけてくるようなのです。
こんにちは、ゆきばあです。毎日ブログを更新しています。

来年の大河が「光る君へ」というので、なんとなく当時のことが気にかかってならない。
やはり、定子中宮のこともかなり取り上げられるのだろう。となると、気になって清少納言の「枕の草子」にあらためて目を通してみた。
1段の「春はあけぼの・・・・・・・」はだれでも知っている。朗々として美しい調べの音楽を聴いているようだ。たとえば、グールドの弾く「フランス組曲」のような
また「枕草子」全体をとおして明るく歌うようなのに、どこか沈鬱さを感じるのは、清少納言が定子中宮のサロンで伸びやかに才能を発揮しながらも、1年あまりの後にある悲劇が訪れるからかもしれない。明るい昼の光が一瞬陰って、ネガになるような。
「枕草子」が、人々の心をを捉えて離さないのは、そんなところにも理由があるのかもしれない。
いずれにしても、千年前の女性の考えていること、感じていること、感覚、手触り、生き生きとした人の動きや、心ばえ、そんなものが手に取るように目の前に再現されるのは不思議なほどだ。

《第二十六段》
心ときめきするもの
雀の子飼ひ。稚児遊ばする所の前渡る。
よき薫き物たきて、一人臥(ふ)したる。唐鏡の少し暗き見たる。
よき男の車停めて、案内問はせたる。
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「よき薫きものたきて、一人臥したる。唐鏡の少し暗き見たる。」
いいですよね。よき薫に包まれて独り寝する心地よさ、なんてステキなひとときなのでしょう。心がときめきます。
そしてまた、「唐鏡の少し暗き見たる。」には、なぜかドキリとさせられます。
鏡の向こうに清少納言の顔を実際に見ているような錯覚にとらわれるからです。その息づかいさえ感じられるほどに。なんて、すごい感性なのでしょう。

《第二十七段》
過ぎにし方恋しきもの
枯れたる葵。雛遊びの調度。
二藍、葡萄染などのさいでの、押し圧されて、草紙の中にありける、見つけたる
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思い出の中に残るものを並べていますね。
「枯れたる葵」とは葵祭のときの葵の葉のことでしょうか。人形のお道具というのもわかりますね。
ところで、「葡萄染などのさいで」とは・・・?
布の端切れのことのようです。本を開いて見ていたら、栞がわりに挟んでおいた端切れが押しつぶされた状態で見つかったのでしょうね。
この端切れも不思議に生々しく、まるで手に取るように感じられます。端切れが千年の時をこえて、私たちの手許に届いたような感覚になります。
なぜそこに挟んだのだろう、そう思って清少納言はその部分をしみじみと再読したかも知れませんね。
それを現代の私たちが、目に見えるように感じるとは・・・・・・。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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