グリーンベルト(20)
「日本料理を作ったりするの?」葉子さんが聞いた。
「料理はしないわ。夫が亡くなってから、作る気がしないの。家の近くに日本料理店があるのよ。やっているのは韓国人なんだけど・・・・・・そこでいろいろ頼んで作ってもらうのよ。お浸しとか、卵焼きとか」
君江さんが、キヨミさんを見ながらにこにこ笑って肯いている。
それにしてもキヨミさんは、どうもわたしたちとの距離感がうまくつかめないようだ。だからずっと夢心地に見えたのだ。
「森に囲まれて、ひとりぼっちじゃ、寂しくない?」
「夜は犬と一緒にベッドで寝てるわ」
「そうなの」わたしたちは曖昧にうなずいた。
同じ日本人女性が、アメリカの森の中にある、がらんとした大きな家に住み、夜は犬と一緒に寝る。
それがとても不思議で、妙なことに思えた。
「日本へ帰る気はないの」
「まあ、日本へですって?」
キヨミさんは背中を曲げてヒステリックに笑った。
「どこに帰れっていうの。日本にはもうあたしのいるとこなんてないわ」
キヨミさんがふいにヘレンの方を向いて、興奮気味に早口で何か訴え始めた。
ヘレンはキヨミさんを引き寄せその頭を腕の中に抱いた。キヨミさんはされるままになっている。なぜかわたしは軽いいらだちを覚えたのだった。
「ふーん」と君江さんがいった。驚いて君江さんを見たが、その顔はすぐに芝の茂った庭のほうに向いてしまった。
わたしはふいに、日本でのある午後の情景を思い浮かべた。
信心深いヘレンは、よくピアノに向かい賛美歌を歌った。少ししゃがれているけれど、豊かできれいな声だ。興が乗ってくると、ときどきおも思わし気な目を中のどこかに這わせる。うっとりと何かに語りかけるように。しんみりとし目は潤み、喉から嗚咽が漏れそうだ。
曲が終わるとふいに立ち上がり歩き出そうとして一歩よろめき、かろうじて鍵盤につかまって態勢を整えた。それから腕をのばして宙のどこかを指さした。
「ほら、神は今そこに」
それは間違いなく神を見た人間の顔で、わたしたちは慌てて後ろを振り返ったのだけれど、窓の外にはいつも通り青々とした芝生が広がり、庭の隅に芝刈り機が寝せて置かれているだけだった。
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