将軍実朝の鎌倉に、「ゆく河の流れは絶えずして・・・」の鴨長明が訪れていた。写真は、水木しげるのマンガ古典文学「方丈記」
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ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず
ご存じ方丈記だが、作者の鴨長明は1211年に、実朝の鎌倉をおとずれている。
歌人でもあった鴨長明は、和歌の好きな後鳥羽上皇に目をかけられ、和歌所寄人をつとめていた。
鴨長明は、もともと格の高い京都下賀茂神社の禰宜の家に生まれた。
本来なら父のあとを継ぐはずが、叔父に邪魔されて職に就くことができなかった。それが長明の不運のはじまりであり、のちの無常観にもつながっている。
後鳥羽上皇は長明のために新たにほかの神社の神職をあたえようとしたが、やはりこれも妨害に遭って頓挫。
そんな中でも、和歌の才能を発揮し、新古今和歌集にも10首が選ばれている。やがて仲閒の歌人に誘われて、鎌倉を訪れてみることに。
「鎌倉に行けば、何か職を得られるかも知れない」
そんな思惑もあったようだ。
この鎌倉下向は建暦2年の頃と言われる。ちょうど頼朝の月忌にあたり、法華堂で法要が行われて鴨長明も参列している。
法要がおわると長明はいきなり立ち上がり、堂の柱にさらさらと和歌を書いた。
草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払ふ山風
鎌倉に幕府を開いた頼朝の偉業を思い、今の頼朝を偲ぶ気持ちを表したもの。
長明は御所にまいり実朝とも面会する。
水木しげるのマンガ古典文学「方丈記」では、このとき実朝は、長明に対してあまりよい印象を持たなかったように描かれている。
「なんだかうす汚いジイさんだなあ・・・。」
などとつぶやいている。
そして、どこかの神職を紹介するどころか、
「まあ、これからも和歌に励めよ・・・」
とか言って、さっさと奥に入ってしまうのだ。
実朝は素っ気ない冷たい人物なのか、とも取れるが、鎌倉殿の13人では力を持たない将軍として描かれている。
それを考えれば、冷たいのではなく非力だったといえる。
(何しろあの義時の強さですから・・・汗)
前回、和歌で泰時にとんでもないことを打ち明けてしまった鎌倉殿。次回、和田殿の件もあり手に汗握る展開になるのではないだろうか。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。ほかにも日々の思いを書いていますので、目を通していただけましたら幸いです。
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